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民主党議員の政党遍歴パターン [政治]

しばしば民主党に対して、自民党関係者・支持者から
「民主党は寄せ集めの党」
「政界渡り鳥だらけ」
という、罵倒に近い評価が下されていることがある。また
「社会党出身者が勢力を持っていることが最大の癌」
という評価も2ちゃんねるあたりでは常識化している。
 だが、これらの評価は妥当なのだろうか。
 そもそも、自民党のように確固とした政党が不変に存在していたなら、そこから出たり入ったりした人間がマイナス評価を受けるのは当然である。例えば石破茂や茂木、小池百合子あたりである。だが、政治生活の根拠地と思っていた政党が新進党や自由党のように突然なくなったり、新党さきがけや社民党(第一次橋本内閣で連立を組んでいた1996年初頭に政党名を変更した)のように、1996年の総選挙を前にして結成された旧民主党に多くの議員が離党して詰めかけてしまい、抜け殻のようになった元の党に残ることが諸事情から困難となり、大勢の赴くところに従ったものまで、節操のない政界渡り鳥と言えるだろうか。
 また、派閥化しつつある諸グループに属する民主党の諸議員の政治行動の原理の観察を困難にしている最大の理由の一つとして、「本籍と現住所」の問題がある。いわゆる横路グループ(今の領袖は、衆議院議長として党派的行動の取れない横路孝弘ではなく、輿石東だろうが、なぜか輿石グループとは言わない)は旧社会党、民社協会は旧民社党などと、過去の政党歴(本籍)と現在の派閥(現住所)が一致している場合は良いが、1990年代の政界再編前後から当選回数を重ねた大臣クラスのけっこう有力な議員ほど、履歴から予想される今の所属派閥が意外なのだ。
例えばキャミソール事件で短命大臣に終わった荒井聡は農水省官僚出身で北海道庁に出向して横路知事の側近だったはずだが、1993年の選挙後に日本新党に所属して、2aで後述の政治履歴を経て、横路グループではなく菅グループの幹部である。大畠前国土交通大臣(その前に3ヶ月だけ経済産業大臣もしている)は土井たか子ブームで1990年の総選挙で大躍進した社会党から大量に初当選した土井チルドレンの一人である。民主党結成以来、鳩山グループの幹部となり、鳩山の首相在任中は派閥の留守を預かって会長まで務めたが、菅降ろしのゴタゴタの中で鳩山に愛想をつかして鹿野グループの結成にはせ参じた。仙石由人も1990年初当選の社会党新人だったが、なぜか民主党では前原グループの顧問格ないし、蔭の支配者となっている。
 以上のような問題を整理するためには、党内の大勢を占める側から順に、政党履歴をグループ分けすることが有意であろうと考える。もちろんこれは各政治家の行動を道義的に価値判断するものではない。そういう判断をする時の基礎情報を提供するためである。ウィキペディアの各項目や政治家自らが説明する履歴を読めば、分かる人は分かるのだが、1990年代の政党変遷を正確に理解していないことには、読解困難な書き方も多い。そもそも一般人にとって1990年代の政界再編期は忘れられたほとんど謎の存在である。

○村山・橋本内閣で与党
(1) 旧社会党→旧民主党→現在
 社会党の1990年初当選組はこのパターンである。多くは今も社会党時代の結びつきを保って横路グループに属するが、先述の大畠や筒井信孝農水副大臣、斉藤勁官房副長官ら現住所はそうでないものもいる。現在の領袖である輿石の他、社会党の「お粗末書記長」、鳩山内閣の「お粗末農水大臣」たる赤松、同和・福岡空港利権の松本龍(環境大臣としては有能だったらしい)、「死の街」「放射能をつけてやる」の鉢路前経済産業大臣、反日国家公安委員長と言われて4ヶ月で大臣を辞めた岡崎トミ子、前述の人物らが属する。こう書くと、確かにネット右翼が攻撃する理由が分かってしまう。そこまで非難すべきとも思えないが。
民主党では本来は人数で圧倒的に最大勢力だったのだが、党の主要ポストは新党さきがけ組に野党時代から取られ、社会党時代からの議員が次々に引退していくなか、それほど現在の勢力は大きくない。
 注意しなければならないのは、領袖の横路自身は村山内閣の段階に於いては与党の立場でなかったということである。1969年に社会党のプリンスとして28歳で初当選したが、1983年から95年まで北海道知事を務め、旧民主党結党の中心となって1996年に衆議院に返り咲くまで一年ほど浪人期間(これは2期目を落選して1993年から96年まで浪人していた仙石も事情が似ている)がある。若き「革新知事」(今や死語)として当選しながらも、道民党を主張したのは政略であり、一貫して自民党抜きの政権交代を追究し、自民党を政権の座に引き戻した自社さ連立のあり方を批判した。中央政界で浦島太郎だとして、当時のいしいひさいちの政界マンガでは徹底的に諷刺の対象となっている。
横路は中央政界復帰に当たって知事の後継者としては、新進党後援で側近の副知事の堀達也を立て、村山内閣の自社さ連立を象徴する存在として立候補した1990年社会党初当選組の伊東秀子(2007年の参議院比例区の繰り上げ名簿に掲載されており、現在は国民新党に属する)と争った。この時は横路後継阻止のために自社さ側から鳩山由紀夫を知事候補に擁立する動きもあり、極めてねじれた選挙戦であった。

(2) (自民党→)新党さきがけ→旧民主党→現在
 自民党を批判して離党したが、当時の小沢のような新自由主義の路線ではなく憲法・平和重視の小日本主義の立場をとった武村正義「ムーミンパパ」に従った人たちだ。細川内閣で与党となり、羽田内閣のゴタゴタで小沢らについて行けなくなって袂を分かち、自民党と社会党連立の村山内閣では政権の接着剤となった。政界再編の時期に社会党と並んで、最も長く政権につき続け、よくも悪くもその間に権力の味と実態を目にあたりにしたグループである。鳩山由紀夫が代表的存在だが、玄葉光一郎外務大臣以外(無所属で当選後、1993年12月に入党)、それほど純粋組は今に残っていない。実は次の派生型が現在では政権で有力である。
(2a)日本新党→新党さきがけ→旧民主党→現在
 1993年の衆議院総選挙で細川護煕をしたって日本新党で初当選した議員の多くが、今は与野党で重要な地位に就いているが、実は細川内閣の途中で細川から武村に宗旨代えした議員は多いのである。先の荒井の他、前原も枝野も小沢鋭仁元環境大臣、五十嵐文彦財務副大臣もそうである。その結果、村山内閣でも新進党に行って野党になることなく与党生活を満喫できたのであるから、原理原則のないご都合主義者として非難されそうなものだ。が、現実はそうでもない。やはり政治とは理想や倫理でなく現実のものであり、政治家は不確かな理想論より、ただ長くしっかり権力にしがみついた方が、より良い経験ができて将来に生きるのだろう。
(2b)社民連→新党さきがけ→旧民主党→現在
 実は菅直人前首相一人である。一つ前のグループに似た政治行動だが、その結果、市民運動、弱小政党出身ながら、自民党の若きエリート並の出世速度(若く初当選し、それから十数年の40歳代で大臣になるパターン)で第一次橋本内閣の厚生大臣の地位を、50歳を前にして射止めたわけだ。その結果、以前から政界では玄人受けする存在ではあったが、政界再編期には地味な存在にすぎなかったものが、薬害エイズ事件で一躍国民的英雄になれた。その知名度を生かして。旧民主党で結党当初から鳩山と並んで二人代表の地位を占め、大同団結による1998年の現民主党の結成後に野党第一党の代表の地位を手にしたのである。近く首相になることは、この時点で十分される事態であった。
実はすさまじい権謀術数の持ち主であることを象徴する履歴である。社民連を94年初めに解党した際に、実は党のオーナーだが新進党に行った江田五月と袂を分かっているのに、いつの間にか元の仲間に戻って10年経つのも謎である。
(2c)民社党→新進党→新党さきがけ→旧民主党→現在
 1990年に初当選以来、7回連続当選を続ける小平忠正だけである。なぜか1990年組では大臣になりそびれ、両院議員総会長や中央選挙管理委員長など党の傍系ポストを歴任し続ける不思議な存在である。途中の一匹狼的行動により、第一次橋本内閣で政務次官の地位を得たことがマイナスに影響しているようである。

○ 村山・橋本内閣で野党
(3) (自民党→)新生党・日本新党など→新進党→(国民の声・フロムファイブなど)→民政党→現在
 自民党にいた履歴があるかは初当選時期によるが、政治信条的に保守よりということである。渡辺恒三以下、岡田克也、野田首相、藤村官房長官らの履歴である。野田首相は1996年の総選挙で落選しているので、それから4年間の浪人中の政治行動の評価が難しい。実は鹿野道彦農水大臣は自民党時代から「清和会の若きプリンス」だったが、細川内閣の当初からはせ参じたわけではない。後に三重県知事からマニフェスト提唱者として大学教授の地位におさまった北川正恭にかつがれて、細川内閣の途中で自民党を離党したのである。新進党解党で混乱する中、「国民の声」で代表となったが、その後10年以上も雌伏の時を過ごした理由がその辺りに潜んでいそうだ。
(3a)社民連→日本新党→新進党→(いろいろ)→現在
 江田五月だけの特異な履歴である。なぜ94年初めに社民連を解散した際に菅直人と行動を共にしなかったかについては分からない。以前からの菅との意見の相違も理由にあったようだが、小政党の社民連に一つ閣僚ポストを割り振って細川内閣で科学技術庁長官として初入閣させてくれた細川首相や小沢ら保守系の恩義に江田が報いたとする説が有力である。新進党解党のゴタゴタ期を岡山県知事選への出馬と落選で浪人、1983年以来の参議院への復帰という過程で過ごしたので、その時期の身の処し方についてはアンビバレントな存在でいられたようである。

(4)民社党→新進党→新党友愛→現在
 このグループは民社協会を維持して今も堅い結束を誇り、1983年初当選で年長ながら3回落選した不遇な田中慶秋を会長として、民社党の元書記長だった中野寛成元国家公安委員長や直嶋正行元経済産業大臣、川端文部科学大臣、城島国対委員長らを擁する。だが、中井「はまぐり」や小平忠正ら脱落者もいる。

(5)自民党→新生党→新進党→太陽党→民政党→現在
 羽田元首相に従い、いち早く1996年の総選挙前に小沢が専横する新進党を離れつつも、自社さ連立の側には戻らずに、野党として太陽党を結成した人たちである。北沢俊美元防衛大臣、前田武志国土交通大臣らがそうである。羽田の側近たちであり、竹下派七奉行の一人で民主党結党まもなく1998年に死んだ奥田敬和も同期当選の仲間の羽田に従った。

(6)(自民党→)新生党→新進党→自由党→現在
 小沢一郎に忠実に従った者がたどったコースであり、先ほど急死した参議院議長の西岡武夫や、最高顧問の藤井裕久、山田正彦前農水大臣らが代表的存在である。ここから脱落した有力者は多く、小渕内閣の自自連立が崩壊した際に野田毅や扇千景らは与党に残るために保守党を作り、やがて自民党に復帰した。藤井も山田も今は小沢の元を完全に離れている。最後まで残った有力者が、実は小沢より初当選が6年も早い(が、二回の浪人生活で議員在籍期間はほぼ同じ)兄貴分の西岡武夫だけであった。
(6a)民社党・公明党→新進党→自由党→現在
 拉致問題で話題になる中井「はまぐり」元国家公安委員長らが属する。新進党解党時に新生党時代の仲間でないのに小沢に従ったやや傍系コースである。

(7)社会党・日本新党など→市民リーグなど→旧民主党→現在
 細川内閣では与党の立場にありながら、村山内閣では自社さと組まなかったが、といって巨大野党の新進党にも加わらなかったグループである。代表的存在は先述の横路孝弘だが、当時に現職の議員だった人たちだと、実は海江田万里前経済産業大臣も市民リーグ代表であり、浪人中の仙石と連合して地域政党のネットワークを作り、旧民主党結成の中心的存在であった。

子供のころに考えていた勘違い その1 [政治]

個人情報保護が問題になるまで、長者番付こと高額納税者のマスコミ発表というものがあった。

小学生中学年くらいまで、私はこれについてとんでもない勘違いをしていた。
すなわち税金というのは所得の額によって決まっているのではなくて、希望するだけいくらでも国庫に納められると思っていたのだ。せいぜい所得に応じた最低率が決まっていて、それ以下だと脱税で処分されるだけだろうとも。
だから全国の長者名簿に載るために、世の中のお金持ちは競って出来るだけたくさん税金を納めようと毎年がんばっていると、推測していた。けっこう上位になった人たちは
「たくさん税金を納めるのは大変だが、まあ世の中のためになることで役立ってうれしい」
というような風にマスコミに(まあ今から考えると模範解答として)答えていたので、まんざら間違いでもないと思ったのだ。
類推の材料として、神社や寺への寄付を想像していた。高々と自分の名前を書くために、義務もないのに何百万円も寄付するお金持ちがいるのだから、国税たるやすごいものだろう。

さらに飛んでもない勘違いもしていた。リクルート事件とかゼネコン汚職が話題になっていたから、政治献金についても誤解していた。
あれは税金の一種であって、政治家が支援者からお金を取りまとめて、義務とされる税目とは別に自主的に税金を払うものであって、沢山の金を集めた政治家が大蔵省から評価されて、政界の重要ポストに就けるから、政治家は自分の地位を高めるために政治献金に努める、たまに政治家が逮捕されるのは献金をくすねるかちゃんと報告しないからだと思っていた。あと納税組合などは税務署からキャッシュバックがあるのだから、きっと政治献金の場合は手数料として手元に残る分がけっこうあるのだろうとも。

どうして菅首相は辞めずに済んでいるか? [政治]

もう菅内閣を遅くとも8月までに辞めさせるというコンセンサスは、民主党の執行部、枝野官房長官あたりまで行き渡っていることは確かだが、どうして菅首相がその地位(民主党代表=内閣総理大臣)に踏ん張れるかという状況の分析があまり新聞、マスコミなどで出来ていない(政治記者が分かっていても報道しない?)ように思われる。

だいたい三つの理由は指摘されている。
第一に言われるのは、菅首相個人(ないし伸子夫人?)の権力への比類ない執着心である。社民連という小政党から出発しながら、40代で初入閣を果たし、ここまでに至った権謀術数と権力欲は並大抵ではない。江田五月という竹下=金丸関係のようなバックもある。
第二に野党サイドの都合で言われるのは一事不再議の問題である。昨日は試みに石破が国会質問をしていた問題だ。6月初頭に内閣不信任案が否決されてしまったので、野党から与党の反対派と呼応して倒閣することが不可能だという話だ。
第三に震災復興のための政治空白を避けるという論理である。だが野党の言うように(その批判は必ずしも当たっていないか、プロ野球を見ながら監督の采配を批判するオヤジのようなものだが)、菅内閣のおかげで復興が阻害されているというなら、政治空白論は駄目だろう。

一番指摘されていないのは、民主党内の政党運営のシステムと派閥の政治バランスの分析である。
まず、民主党には代表のリコール規定が存在しない。2年間の代表任期の間は自ら辞任しない限り、代表を辞める必要はない。
第二に前原・野田グループと菅グループの深刻な対立の構図である。もう菅は、自分を引きずり下ろそうとする仙石や野田と和解することはないだろう。そして依然として最大派閥である小沢グループをたたいたのは菅ではなく、前原・野田グループだと罪を押しつければ、敵の敵は味方として小沢と連携が可能だろう。だいたい鳩山政権時代は前原・野田(派閥領袖たる野田は鳩山内閣では入閣さえできなかった)らが反主流派であり、菅はトロイカ体制の一端で小沢幹事長の片棒を担ぎ、昨年の小沢邸新年会にもはせ参じていたことを忘れてはならない。小沢の政治資金問題は秋には無罪となることが明らか(検察が無理ねただと思ったから不起訴になったのであって、検察審査会の強制起訴の先は見えている)だから、その後は小沢グループと連携する正当性が生じる。
第三に言えるのは、民主党での役員会と常任幹事会の権限違いが認識されていない点である。枝野官房長官、仙石官房副長官兼代表代行、岡田幹事長、玄葉政調会長兼国家戦略相、輿石参院会長、安住国対委員長が菅の退陣を迫り、執行部、役員会を制圧しているが、役員会の議決だけでは何事も運ばないように民主党のシステムが出来ている。すなわち、閑職の副代表と各地区代表の常任幹事を含んだ常任幹事会を経なければ、党務レベルで様々なことが運ばないように出来ている。そして副代表には石毛瑛子などの旧民主党以来の腹心や他派閥など重鎮(山岡、石井ら)、高嶋ら旧閣僚など執行部の一筋縄でいかない人間を置き、常任幹事には政権運営から遠ざけられながら、民主党の歴史で創立時の代表以来一貫して要職についてきた菅に逆らえないような(恐らく無能で政策などに疎く、政務三役につけられない)人間を配置している。
民主党の組織で、役員会と常任幹事会の構成に、顧問格の江田五月が大きな関心を持っていることは、江田五月のサイトの民主党史料集を見ても分かる。過去の民主党の役職一覧を見られる唯一のサイトだが、しっかり役員会と常任幹事会のメンバーにチェックがついており、絶えず江田が気にしていたことが分かる。
党内から菅首相打倒は難しい。
内閣も執行部の一筋縄でいかないように、固めている。大臣も昨年9月1月の改造の以来、鹿野や中野ら1976年組重鎮や、高木・大畠・細川ら1990年組を年功序列で置いている。この人たちは鳩山内閣では閣僚となれず、干されていたため、菅に逆らうことはない。
原口ら一癖ある人間は国会の委員長に入れてある。ある意味、内閣からも党務からも離れた立場なので、その影響は無視できる。

歴代衆議院議員総選挙の最年少当選者 [政治]


並べると、やはり総理クラスの大物そろいである。
・年齢、学歴、前歴、その後の経歴を載せる

1958年 谷川和穂 27歳 ?法務大臣 2003年引退 
1960年 海部俊樹? 29歳 早稲田大学第二法学部 政治家秘書 内閣総理大臣 新進党代表 
1963年 橋本龍太郎 26歳4ヶ月 慶應義塾大学法学部 呉羽紡績 内閣総理大臣 
      小渕恵三 26歳5ヶ月 早稲田大学第一文学部英文科 大学院生で世界漫遊 内閣総理大臣
      西岡武夫 27歳 早稲田大学教育学部 新聞社経営 参議院議院運営委員長(現職)  ←注目
・西岡は最年少で国会に出る気満々で、早稲田大学教育学部の学生時代から地元の新聞社のオーナー(父親が県知事になったため)、青年団活動で名を売った。
1967年 山口敏夫 27歳 明治大学法学部 石田博英秘書 新自由クラブ幹事長 労働大臣
・再び政界再編で自民党を離党して新生党に。二信組事件で失脚。
・背任、業務上横領、詐欺に加えて、議院証言法違反にも問われる。
・2009年に仮出所。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E6%95%8F%E5%A4%AB
     河野洋平? 30歳 早稲田大学政経学部 丸紅飯田 自民党総裁・外務大臣・衆議院議長
1969年 小沢一郎 27歳6ヶ月 慶應義塾大学法学部 司法試験浪人 経歴略
     佐藤観樹 27歳10ヶ月 早稲田大学?学部 文藝春秋 自治大臣
・社会党の二世議員。村山政権で大臣となり、民主党へ。2004年に秘書給与詐取で失脚。 
     横路孝弘 28歳 東大法学部 弁護士 北海道知事 衆議院議長(現職)
1972年 小泉純一郎 30歳 慶應義塾大学経済学部 会社員??? 内閣総理大臣 
      野田毅 31歳 東大法学部 大蔵省 自治大臣 建設大臣
1976年 鳩山邦夫 28歳 東大法学部 田中角栄秘書 略
1979年 船田元 25歳 慶應義塾大学大学院(教育学) 学校(作新学園)経営 経済企画庁長官
・田中角栄を上回る39歳一ヶ月の最年少で大臣に。その後、野田聖子・小渕優子に抜かれるが、男性では最年少
1980年 菅直人? 32歳 東京工業大学 弁理士・市民運動家 内閣総理大臣(現職)
1983年 中川昭一 30歳 東大法学部 日本興業銀行 財務大臣 落選して自宅で急死
1986年 石破茂 28歳 慶應義塾大学法学部 三井銀行 自民党政調会長(現職)
1990年 赤城徳彦? 31歳 東大法学部 農林水産省 農林水産大臣
・政治資金問題、絆創膏事件で大臣辞職。安倍内閣をつまづかせる。
1993年 宇佐美登 26歳 早稲田大学理工学部 武村正義秘書 松下政経塾 
・2005年に落選後に民主党を離れ、平沼グループで2009年総選挙落選
     枝野幸男 29歳 東北大学法学部 弁護士 行政刷新担当大臣 民主党幹事長(現職)
     前原誠司 31歳 京都大学法学部 松下政経塾 京都府議 国土交通大臣(現職)
1996年 古川元久 30歳 東大法学部 大蔵省 内閣官房副長官(現職)
2000年 原陽子 25歳4ヶ月 桜美林大学大学院 大学院生 史上最年少 社民党 
・次の総選挙で落選の後は市議選にも落選し、福祉職に転向。
2003年 寺田学 26歳 中央大学法学部 三菱商事 民主党青年部長 総理補佐官(現職)
2005年 杉村太蔵 26歳 筑波大学中退(スポーツ推薦) 証券会社派遣社員 以下略
2009年 松岡広隆 27歳6ヶ月 立命館大学経済学部 関西電力 
     横粂勝仁 27歳11ヶ月 東大法学部 弁護士 
     小泉進次郎 28歳4ヶ月 関東学院大学 コロンビア大学大学院 米シンクタンク 以下略   

大下英治「小説土井たか子」と90年代政界再編劇 [政治]


小説 土井たか子 (現代教養文庫)

小説 土井たか子 (現代教養文庫)

  • 作者: 大下 英治
  • 出版社/メーカー: 社会思想社
  • 発売日: 1995/03
  • メディア: 文庫




小説・土井たか子―山が動いた

小説・土井たか子―山が動いた

  • 作者: 大下 英治
  • 出版社/メーカー: 徳間書店
  • 発売日: 1990/01
  • メディア: 単行本



大下英治の政界本はそれほどベストセラーということはないが、業界人にはずいぶん読まれているようだ。
彼の著作のスタイルは独特である。新聞の政治面(丸山真男以来、「政界面にすぎない」という批判は当然に受け止めなければならないが)にも出ていない、同時進行形の生の大物政治家の発言が
「小説」
という隠れ蓑で、さも著者が宴席や秘密会合に同席していたかのように書かれる。
いかにも怪しい手法だが、政治家のオフレコ発言の情報を新聞社から仕入れるなどの方法で内容を担保しているようである。
そもそも月1冊では効かない冊数の著書を大下個人の筆力だけで書けるはずもなく、
(執筆量は確保できても、取材が追いつかないだろう)
「ゴルゴ13」のような多数のスタッフの共著的な方法らしい。
いまのところ関係者から大下が捏造発言で告訴されたりしてはいないので、おおむね事実なのだろう。
立花隆の最近の政界ネタはほとんど大下情報を根拠にしているようだ。
あまりに細かい事実描写は無意味とも思えるが、私はそうだと思わない。歴史は意外と個人的な人間関係、キーパーソンの前人生、価値観、好みなどに左右されるものである。細部を軽視してはならない。

閑話休題

1990年代半ばの政界再編劇と連立政権の詳細については、驚くほど日本国民には知られていない。ネット右翼が村山総理を売国奴と罵るだけである。一般人も首相の名前くらいしか覚えていない。
その原因の一つは、吉田茂や佐藤栄作、果ては田中角栄の時代の話のように、その時代の出来事が物語として国民の記憶に編成されていないからである。竹下派七奉行は知っていても、彼らがどう自民と反自民に袂を分かったのかも知られない。社会党に至っては
・無意味な派閥争いの横行
・選挙、資金面で労組頼み
・極左は共産党より過激。
といった断片情報しか知られていない。
徳間文庫の大下の著作はまだ売れているようだが、それ以前の角川文庫や「土井たか子」などは古本屋でも滅多に見ない。それだけ政界の業界人、マスコミの政治部員などがネタ本として手元に温存しているからだろうか。


以下の事実を知っている人間はどれだけいるだろうか。
・生家は神戸の開業医で、戦前に自家用車を持っているほどの恵まれた環境。
・土井たか子は戦時中の京都女子専門学校(現京都女子大学)の東亜文学科に在学。国策で英語の授業が廃されたため、中国語を勉強させられた。
・(ネット上では編入に疑問の声も出ているが)戦前から女子大生を受け入れていた同志社大学法学部に編入し、研究者の道を歩む。
・だが女性研究者として相当下駄は履かされていた模様。修士論文の国政調査権の論文は学部の卒論程度と指導教授以外に酷評され、修士課程に4年在籍
・憲法の研究者と一般に言われながら、衆議院選挙に立候補する40歳まで大学で常勤のポストは得られなかった。この間、論文執筆は殆どなく、社会党の下部組織での護憲運動=プロ市民活動がメイン。

(初当選から委員長選立候補までの描写がほとんどない)
・社会党委員長の専用車は飛鳥田委員長の時代はなかった。
・土井たか子の時代には旧型センチュリーになっていて、多くの非大臣の自民党代議士の車より上で、同期当選の森喜朗から見つめられるレベルだった。
・岩垂寿喜男は総評の事務局出身の左派幹部だが、無派閥の土井たか子を政策面で支えた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%9E%82%E5%AF%BF%E5%96%9C%E7%94%B7
・伊藤茂(1928~ 存命)は社会党事務局から昇格の超エリートで、悪筆を補うために1980年代からモバイラーだった。伊藤の文書作成の速さと守秘性が土井執行部を支えた。
(社会党に大物多選議員は少なかった。労組の論功行賞で50代で議員になるが、10年ほどで後輩に交代させられて、なかなか大物になれない。だから連立政権期に多くの著名議員は入閣した。当選回数は既に自民党を追い越す勢いだった)
・少数のエリート多選議員の政策能力、国際情勢の把握度は相当のものだった。自民党に比べて勉強不足なのは否めないが、各省庁の官僚からレクチャーを受ける場がないことを思えば、特筆すべきこと。
・脱冷戦の現状分析、未来像はけっこうリアリズムに富んでいた。
・だが執行部の権限が極端に少なく、石橋委員長時代から進められた革命路線からの転換、政権参画を党の方針として確定させる(綱領変更など)に至らなかった。
・土井たか子を衆議院議長に推す小沢一郎の深慮遠謀は、土井ら最左派(この段階で教条主義的な社会主義協会系は壊滅に近い)を護憲派の河野洋平と連携させないため。この時点で左派が自民党と連携することを既に小沢ら新生党は危惧していた。

石川3区の瓦力が引退 [政治]

もうちょっと森喜朗に刃向かって比例区に留まるかと思ったら、おとなしく引退するとのこと。
河野洋平が2005年の総選挙後に衆議院議長を辞めていれば、後釜は100%瓦力だった。4年もずっと議長待ち状態。
今回の選挙で当選しても、議長は民主党に行っちゃうから、無理に比例区で議員を続ける意味もない。今更、参議院の山東昭子みたいに副議長なんて出来ない。参議院の副議長なんて、2007年に民主党の角田義一が秘書給与問題で辞職した後は、1995年初当選で引退の迫る二期の今泉昭が箔付けで副議長の残りの任期を勤めたくらいだから、衆議院でも参議院でもそもそも副議長には大して権威はない。
だから引退なのだろう。
だが、選挙区で森の子分の北村茂男(小泉チルドレンの中では特色がなく、無名)に前回に地盤を譲らされた経緯は、円満なものではなかった。最後まで石川三区に無所属で立候補する意向は見せていたし、そうなれば民主党に漁夫の利をさらわれる可能性もあった(だから土壇場で比例優遇が決まった)。
これからは瓦は一切、地元で北村と自民党を支援しないという。森との怨恨の深さを思わせる。

そもそも北村は輪島の出身であり、能登で穴水出身の坂本三十次の選挙基盤を継いでいるというわけでもない。輪島の市長も保守系を破ってまさかの初当選した組合出身で、その後は保守勢力と親和的とはいえ、北村と一心一体とはいかないようである。基盤は盤石ではない。
前回の郵政選挙ですら、民主党の桑原豊に票を積み増されている。1996年と2000年の民主党の泡沫候補に比べれば、二回とも保守王国で大した得票である。加賀と違って、能登には保守系の新進石川の組織もないのである。小選挙区で2回落選なら候補をすげかえる民主党ルールと本人の意志(元は金沢市の1区からの落下傘候補。奥田建との選挙区調整による)で政界引退した。郵政風がなければ、桑原は比例復活の可能性もあった。桑原は1996年から2003年までずっと衆議院議員であったにも拘わらず、石川県民にも印象が薄い。2回とも比例当選だったからだろう。自民党の石川弘などと同レベルの知名度だろうか?
もし桑原が3回目の立候補をしていれば、今から当確マークが付いていたかもしれない。


自民党の瓦力・元防衛庁長官(72)=衆院比例北信越ブロック=は21日午後、国会内で記者団に対し、次期衆院選に出馬せず政界を引退する考えを表明した。 瓦氏は衆院議員秘書から、1972年に初当選し、連続12回当選。この間、建設相、党国対委員長などを歴任した。竹下内閣で防衛庁長官を務めていた1988年には、潜水艦「なだしお」と遊漁船の衝突事故が発生し、引責辞任した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090721-00000083-jij-pol

自社さ連立時代を忘れる健忘症 [政治]

どうやら世間一般の人間は90年代半ばの連立政権の時代のことを、ほとんど忘れているようである。その時代に生まれていないか、幼くて知らないということは考えられようが、若い彼らにしても吉田茂や田中角栄を知らないわけではあるまい。ここでは同時代性は問題ではない。

さすがに細川護煕、羽田孜、村山富市が総理だったことまで忘れている人間は少ない。むしろ細川や羽田のことを忘れていても、村山富市の印象は大きくて、さすがに万人が認識しているようである。
だが問題は記憶のありようである。ネットウヨの動向はどうでもいい。麻生内閣の支持率がいい例である。実社会との差異も大きいし、YAHOOやニコニコ動画の世論調査など、ただの署名集めと同じで無作為抽出性がない。統計学的には意味のない数値である。といって通常の電話世論調査も、昼間に個人の家の固定電話に電話するのみ、出るのは年寄りばかりで、偏っているとは思うが(いつの間にか電話世論調査に対する否定的な見解が消えたのも不思議である。面接調査をするコストを負担できる余裕が既存マスコミからなくなったというっことだろうか?)
「嘘も百回いえば本当になる」
というのは真理であり、村山内閣のおかげで阪神大震災が人災化したとかという風説の流布は未だ絶えない。当時の内閣官房副長官で官僚組織のトップである石原信雄が明確にそれを否定している。
「前例のない未曾有の災害で、かつ法制度の未整備な状態では、村山以外のだれが内閣総理大臣であっても迅速な対応は不可能であった。」
として、自民党単独政権でもできた対応は同じだったとの指摘である。
最近でてきた「米軍出動論」などは論外である。日本の社会システムからいって受け入れは困難である。日本の行政と自衛隊が占領一時のイラク軍と同レベルに無能といっているようなものだからだ。そもそも英語でしゃべりまくる部隊が出動したからといって、ちゃんとコミュニケーションが取れるのか疑わしい。といって通訳を隅々につけるのだろうか?
そもそも村山政権時代に日米関係(というよりクリントン大統領個人)との関係が最も良好だったことは知られていない。政権誕生当時にアメリカ側は社会主義者の首相ということで警戒した。だが、最初の会談時に村山は率直に戦後の自分の精神史を語り、なぜ社会党に入って政治活動をしてきたかを説明した。ベトナム戦争反戦世代のクリントンには敬仰せざるあたわざる内容であり、一気に信頼関係が築かれたという。
ここでは英語力の問題は関係ない。日本の首相が会談する時は外務省の北米一課長クラスが細心の注意を払って通訳を行い、言葉のニュアンスで誤解が生じることはない(日本の役所は連合軍を国際連合、敗戦を終戦と言い換えるなどの国内の広報活動には長けているが、そこまでして言葉の力で世論を誘導できるのだから、まともに通訳できないほど馬鹿ではない。)。そもそも電話会談の時は電話口からいきなり日本語の吹き替え音声が聞こえてくるのである。
ロンヤス関係などは有名だが、外交での日本の首相の国際的評価は意外と国内の評価と異なる。『エリゼ宮の食卓』などの本によると、料理や酒のレベルで相手先に歓待されているのが分かるのは、鈴木善幸、海部俊樹や村山富市などであって、国内の認識(「外交に強い」)とはずれがある。

真相をわかっている人も多いのだろうが、ネットウヨ(そもそも自民党の工作員説もあるが、これは分からない)の主張が知れ渡って、一般のそれほど政治に関心がない人もそう思っていることが多い。
googleで「村山富市」を検索すると出てくる関連ワードは
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などである。

そもそも当時の国家公安委員長は自民党の野中広務だし、閣僚の過半も自民党である。
内閣総理大臣(81代)
村山富市 ( 衆、 日本社会党 )
国務大臣【副総理・内閣総理大臣臨時代理】・外務大臣
河野洋平 ( 自由民主党、 宮澤派 )
法務大臣
前田勲男 ( 参、 自由民主党 小渕派 )
大蔵大臣
武村正義 ( 衆、 新党さきがけ )
文部大臣
与謝野馨 ( 衆、 自由民主党 渡辺派 )
厚生大臣
井出正一 ( 衆、 新党さきがけ )
農林水産大臣
大河原太一郎 ( 参、 自由民主党 渡辺派 )
通商産業大臣
橋本龍太郎 ( 衆、 自由民主党、 小渕派 )
運輸大臣
亀井静香 ( 衆、 自由民主党 三塚派)
郵政大臣
大出俊 ( 衆、 日本社会党 )
労働大臣
浜本万三 ( 参、 日本社会党 )
建設大臣
野坂浩賢 ( 衆、 日本社会党 )
自治大臣
野中広務 ( 衆、 自由民主党 小渕派 )
国家公安委員会委員長
野中広務 ( 衆、 自由民主党 小渕派 )
内閣官房長官
五十嵐広三 ( 衆、 日本社会党 )
内閣官房副長官【政務】
園田博之 ( 衆、 新党さきがけ )
内閣官房副長官【事務】
石原信雄
古川貞二郎【1995年2月24日 ‐ 】
内閣法制局長官
大出峻郎
総務庁長官
山口鶴男 ( 衆、 日本社会党 )
北海道開発庁長官
小里貞利 ( 衆、 自由民主党 宮澤派 )
小沢潔 ( 衆、 自由民主党 宮澤派 )【1995年1月20日 ‐ 】
防衛庁長官
玉澤徳一郎 ( 衆、 自由民主党 三塚派 )
経済企画庁長官
高村正彦 ( 衆、 自由民主党 旧河本派)
科学技術庁長官
田中真紀子 ( 衆、 自由民主党 無派閥 )
環境庁長官
桜井新 ( 衆、自由民主党 三塚派 )
宮下創平 ( 衆、 自由民主党 三塚派 )【1994年8月14日 ‐ 】
沖縄開発庁長官
小里貞利 ( 衆、 自由民主党 宮沢派 )
小沢潔【1995年1月20日 ‐ 】
国土庁長官
小沢潔
国務大臣【震災対策担当大臣】
小里貞利【1995年1月20日 ‐ 】( 閣内異動、 衆、 自由民主党 宮沢派 )

村山内閣の次の橋本内閣も96年10月の総選挙までは三党連立が続いたことも忘れられている。そして自民党が衆議院の過半数に満たなかったため、98年の参議院選挙まで、すなわち橋本内閣の最後まで社民党の閣外協力は続いたのである。それは消費税を5%にし、住専問題を解決し、構造改革路線を貫徹するのに責任を負う必要があると、当時の社民党は考えていたからである。消費税については自民党の方が無責任で、96年の選挙では多くの候補者が3%維持を無責任に主張していた。
自民党の立場からすれば、96年の選挙では251人が過半数のところ239人しか取れなかったところ、当時の幹事長の加藤紘一が今の細田幹事長や古賀に比べれば実ははるかに策士であって、新進党からどんどん議員を切り崩して最終的に260人クラスに持っていっている。そもそも新進党は殆どの地域で地方組織を作ることにも成功せず、同時期に解党に追い込まれるのだから、今の民主党よりはるかに弱いものだ。このころの小沢は全く神通力がなかったのが、今からすると不思議である。

高級官僚は政治家の言いなり? [政治]

けっきょく中央省庁のキャリア官僚が政治家に弱いのは、予算獲得、国会審議の円滑化とのバーター取引ということが分かった。
別に政治家に天下りを斡旋してもらうためでも、政界への転身を図るためでもない。
これが地方自治体だと逆だな。殆どの地方議員は政策を知らないので、質問も職員に書いてもらったりしている。学歴は高卒ばかりで、漢字が読めないなんて当たり前だ。
そもそも首長が議会と総対決状態にでもならない限り、地方自治体では首長と行政部局はオールマイティーだ。
自主財源が潤沢な市役所の職員と首長が無敵かもしれない。庁内の調整さえ付けば、議員と土建屋の話を適当に聞いているだけで、あとは好きなことができる。


厚生労働省の局長らが郵便の割引制度を悪用していた自称・障害者団体のために証明書を偽造したとして逮捕された事件で、当時局長の上司だった厚生労働省の元幹部が、国会議員から証明書について依頼があり、局長に対応を指示したなどと供述していることについて、別の元幹部は 「官僚にとって国会議員からの要請は最優先の事項だ」 と話しています。 逮捕された村木厚子局長といっしょに仕事をしたこともあるこの元幹部は、局長の人柄について 「ふだんはリラックスをした対応をしているが、しんがとても強く、省内では事務次官候補といううわさもあった。仕事熱心で器もそれだけの人柄だ」 と話しています。また、国会議員からの要請については、 「われわれが教えられている中では国会は最優先です。障害者に対する支援は障害保健福祉部の職員の1つの柱で、そのためには法令・施策・予算を確保しなければならない。その強い味方は永田町の先生。いちばん心強い」 と述べ、官僚にとって国会議員からの要請は最優先の事項だという認識を示しました。そのうえで、村木局長が偽造にかかわった理由については 「法案を通してもらうとか、予算を付けてもらうには、強い味方は永田町の先生なので、永田町に貸しを作る、あるいは事務次官のレースに乗るために永田町にいい顔をできると思ってやったというのがいちばん可能性としてあるのではないか」 と話しています。また、村木局長が障害保健福祉部の企画課長だった当時、頻繁に意見を交わしていた障害者団体の関係者は、当時の状況について 「障害者自立支援法をめぐり、国会対策がいちばんの念頭だった。法律は国会で審議されるものなので、当然国会の動向を気にしていたが、その気にしかたは相当強いものがあった」 と話しています。また、村木局長の当時の上司で「国会議員から証明書について依頼を受け、局長に対応を指示した」などと供述しているとされる厚生労働省の元幹部について、この関係者は 「国会対策が非常に多かった。私たちが陳情のために国会を回ったりすると、何回も国会の中でお会いしたりしていたので、相当足を運んでいたと思う。群を抜いて国会対策に力を入れていたのではないか」 と話しています。 http://www3.nhk.or.jp/news/k10013646271000.html


変人鳩山邦夫と東大出身の政治家 [政治]

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A9%E5%B1%B1%E9%82%A6%E5%A4%AB

ここ15年ほど前から、鳩山兄弟で弟の方はどうも理解できなかった。
兄の由紀夫の方なら思考まで理解できるのだが、弟の方は無理だった。
アルカイダ発言、死刑自動化発言などである。
(UFO発言は、石破発言の方がずっと意味深長だ)
無能だとかお坊ちゃんだとかいうレッテル張りができないのである。今度、以下の本を徒然に読んで、何とか理解できた気がした。
基本的に大下の本は政界の提灯本で、当人たちに悪いことは書いていないのだが、物事を考える際の素材にはなる。 他の本には書いていない情報も多い。
大下英治『小説東大法学部』上下・角川文庫・1989

厳密に言うと、最後の章の大蔵省を除いて、政界の頭狂大阿呆学部出身者しか載っていないのだが、鳩山邦夫こそ頭狂大学の名にふさわしい。
各章で別人を取り上げた列伝形式になっていて著名人物がリストアップされているが、上巻の前半は戦前派で、政界本では普通の内容である。森山真弓を取り上げた所が新味であろうか。

後藤田正晴 中曽根康弘 宮沢喜一 山下元利 安部晋太郎 松本善明 森山真弓
下巻が面白い。一人当りのネタも多く、ページ数は多い。何より現在も活動している人物である。江田五月は参議院議長だし、横路孝弘は衆議院副議長だし、民主党政権では棚上げで議長に昇格する可能性が高い。

加藤紘一 江田五月 横路孝弘 鳩山邦夫 (発行当時の大蔵省人脈)

本当は江田や横路の同級生で全学連の幹部で、江田五月と並んで丸山真男の門下であった大蔵省の中島義雄が載っていると完璧だったのだが、けっきょく失脚してしまったので、載せなかったのは賢明か。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A9%E5%B1%B1%E9%82%A6%E5%A4%AB
明らかに執筆者の同情と共感が伝わってくる内容だが、今は船井電機の副社長であることまでは知らなかった。
今同じ題名の本を書くなら同じ題名で中山恭子や片山さつき辺りが載るかもしれない。

一言で言うと、鳩山邦夫は思考パターンが常人離れしているのである。下巻の人物は現在は野党か、自民党でも微妙な立場にある人々ばかりであるが、鳩山邦夫だけは現職の大臣である。福田内閣に続いて、麻生内閣でも閣内にとどまっている。自民党復党後の冷遇ぶりが嘘のようである。
兄の方が旧民主党結成期に「変人」と言われたが、弟の方がよっぽど変人なのである。

本書からネタを少しだけ挙げる。
・祖父の一郎、父の威一郎、当人と続いて東大法学部で首席。
・それなのに、司法試験も国一も無視して、政治家になることだけを考えて、田中角栄の秘書に。
・小学生のころから家庭教師と総選挙の当落を選挙区事情まで考慮して賭ける。といっても、この本では加藤紘一は小学生の時に父親(鶴岡市長も務めた)の衆議院議員選挙を手伝っている事実が書かれているので、それほど特別ではない。
・文Ⅰから法学部への進振で首席であることが確定した時点で、3年でも法学部の授業に出るのは止めて、昆虫採集などに熱中する。それでも26科目中23科目で優(首席だったかは保証されていない。が、これがどれだけ凄いことかは、関係者なら分かる。大下も大して凄いことだとは書いていないけど。少なくとも学部卒で助手採用は確定。そのまま25歳で助教授になるコース)を取って卒業する。
などなど

ここに出ている人物でも、加藤紘一は学生運動に挫折してから3年生で水泳部に入って、最後まで三軍に終わって苦にもしなかったり、江田五月が学生運動で二度目に逮捕された時、社会党書記長の父親から
「革命を目指して頑張れ」
と真面目に言われたり、いったん退学してから欧州を半年以上放浪してから復学し、以後どれだけ秀才であったかなど、滅茶苦茶なネタがたくさんあるのだが、鳩山邦夫はレベルが違う。
これだけ変人だと、普通なら人に相手にされないレベルなのだが、名門の出身で東大法学部卒業だけじゃなくて首席だから、誰も文句を言えないのである。おまけに官界にも入らず、田中角栄の秘書からキャリアが始まる。
何より注意しなくてはならないのは議員経験の長さである。1976年に新自由クラブから初当選(中川秀直も同じ経歴だ)したのである。政治家の序列は年齢とは関係なく、当選回数だけで決まるが、初当選の年齢がずば抜けて若い。1990年にはすでに文部大臣になっているのに、まだ60歳だとは思っていなかった。これに比べると、政界入りが五〇代だった福田康夫は論に及ばず、谷垣禎一も麻生太郎も意外と年寄りである。
津島雄二(太宰治の女婿)は次回の引退がほぼ決まっているので、外様ながら鳩山が次回の平成研究会の会長になる可能性は高い。最近は次期総理の世論調査でリストにも挙がっていないが、乱世ではこれから総理にならないとも限らない。少なくとも民主党と人気が伯仲する状況では、無茶な想像ではない。
(鳩山の問題発言には余裕を感じさせるが、麻生の問題発言には森喜朗と同じ香りがする。マスコミを敵に回しだしたらやばい。ヲタ・ネット右翼の支持はそれほど広汎なものではないし、経済団体などの支持は今の麻生支持というより、青年会議所会頭時代からの腐れ縁である)

ちなみに父親の鳩山威一郎は大蔵省の事務次官まで務めてから全国区で参議院議員になったので、初当選は1974年と遅い。それでも昔は事務次官や首長経験者を、自民党はまともに待遇したので、直ぐに外務大臣になっている。

日本政治の政策決定とマスコミの政治報道の謎 [政治]

以前の日経のコラムに、妙に自民党びいきの記述があった。いわく、参議院の野党優勢によって、政策協議が必要になり、政策決定の過程が不透明になるのがけしからんというのである。

よく考えれば全く逆の話である。一昨年暮れのの大連立騒動のように密室で党首会談をやって、あうんの呼吸で与野党合意をやれば、かつての国対政治のように不透明極まりないことになろう。しかしながら民主党は公明正大(いちおう)に国会で議論しようと言っている。どうしてこれで政策決定が不透明になるのか、意味不明である。

忘れられている自社さ連立政権時代の美点の一つに、政策決定の過程が極めて明らかであったことがある。連立与党の政策協議は全て公開されており、当時の新聞記事には
「連立与党の政策合意により」
という文言が多く見られた。かつての自民党単独政権時代、現在までの森政権以降の自公政権時代の新聞のトップ記事には
「政府与党は××の法案を国会に提出し、○○からの実施を図る方針を固めた」
という記事が実は極めて多い。昔の自民党単独政権の時代に戻ったような感じである。
一見その通りの事実かと思うが、つきつめて考えると政界の業界人以外には意味不明な文章である。それは多くは以下のどれでもないからである。
・法案が国会で可決された
・閣議で法案の提出が決まった
・自民党の総務会を通過した。
・自民党の部会で意見がまとまった。
これを一般の言葉に翻訳すると
「中央省庁の担当課長など、役所の根回し、レクチャーが功を奏して、法案に難色を示していた大物族議員が柔軟な姿勢に転じ、党内で法案を制定するムードが高まりつつある。」
これこそ不透明な政策決定以外の何者でもないのではないだろうか?

先日の漆間官房副長官の「政府高官の発言」騒動と同じである。マスコミの政治部の表現、常識がいかに一般社会と乖離しているかということを象徴している。かつて丸山真男は日本の新聞の政治記事を評して、
「政治プロセス、政策決定の意義などは殆ど経済部などに委ねられていて、政治部による政治面は政界面に過ぎない」
と鋭く述べたが、状況は大して変わっていないようだ。

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