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自社さ連立時代を忘れる健忘症 [政治]

どうやら世間一般の人間は90年代半ばの連立政権の時代のことを、ほとんど忘れているようである。その時代に生まれていないか、幼くて知らないということは考えられようが、若い彼らにしても吉田茂や田中角栄を知らないわけではあるまい。ここでは同時代性は問題ではない。

さすがに細川護煕、羽田孜、村山富市が総理だったことまで忘れている人間は少ない。むしろ細川や羽田のことを忘れていても、村山富市の印象は大きくて、さすがに万人が認識しているようである。
だが問題は記憶のありようである。ネットウヨの動向はどうでもいい。麻生内閣の支持率がいい例である。実社会との差異も大きいし、YAHOOやニコニコ動画の世論調査など、ただの署名集めと同じで無作為抽出性がない。統計学的には意味のない数値である。といって通常の電話世論調査も、昼間に個人の家の固定電話に電話するのみ、出るのは年寄りばかりで、偏っているとは思うが(いつの間にか電話世論調査に対する否定的な見解が消えたのも不思議である。面接調査をするコストを負担できる余裕が既存マスコミからなくなったというっことだろうか?)
「嘘も百回いえば本当になる」
というのは真理であり、村山内閣のおかげで阪神大震災が人災化したとかという風説の流布は未だ絶えない。当時の内閣官房副長官で官僚組織のトップである石原信雄が明確にそれを否定している。
「前例のない未曾有の災害で、かつ法制度の未整備な状態では、村山以外のだれが内閣総理大臣であっても迅速な対応は不可能であった。」
として、自民党単独政権でもできた対応は同じだったとの指摘である。
最近でてきた「米軍出動論」などは論外である。日本の社会システムからいって受け入れは困難である。日本の行政と自衛隊が占領一時のイラク軍と同レベルに無能といっているようなものだからだ。そもそも英語でしゃべりまくる部隊が出動したからといって、ちゃんとコミュニケーションが取れるのか疑わしい。といって通訳を隅々につけるのだろうか?
そもそも村山政権時代に日米関係(というよりクリントン大統領個人)との関係が最も良好だったことは知られていない。政権誕生当時にアメリカ側は社会主義者の首相ということで警戒した。だが、最初の会談時に村山は率直に戦後の自分の精神史を語り、なぜ社会党に入って政治活動をしてきたかを説明した。ベトナム戦争反戦世代のクリントンには敬仰せざるあたわざる内容であり、一気に信頼関係が築かれたという。
ここでは英語力の問題は関係ない。日本の首相が会談する時は外務省の北米一課長クラスが細心の注意を払って通訳を行い、言葉のニュアンスで誤解が生じることはない(日本の役所は連合軍を国際連合、敗戦を終戦と言い換えるなどの国内の広報活動には長けているが、そこまでして言葉の力で世論を誘導できるのだから、まともに通訳できないほど馬鹿ではない。)。そもそも電話会談の時は電話口からいきなり日本語の吹き替え音声が聞こえてくるのである。
ロンヤス関係などは有名だが、外交での日本の首相の国際的評価は意外と国内の評価と異なる。『エリゼ宮の食卓』などの本によると、料理や酒のレベルで相手先に歓待されているのが分かるのは、鈴木善幸、海部俊樹や村山富市などであって、国内の認識(「外交に強い」)とはずれがある。

真相をわかっている人も多いのだろうが、ネットウヨ(そもそも自民党の工作員説もあるが、これは分からない)の主張が知れ渡って、一般のそれほど政治に関心がない人もそう思っていることが多い。
googleで「村山富市」を検索すると出てくる関連ワードは
他のキーワード: 村山富市 阪神大震災 村山富市 wiki 村山富市 売国奴 村山富市 交通事故 村山富市 最悪

などである。

そもそも当時の国家公安委員長は自民党の野中広務だし、閣僚の過半も自民党である。
内閣総理大臣(81代)
村山富市 ( 衆、 日本社会党 )
国務大臣【副総理・内閣総理大臣臨時代理】・外務大臣
河野洋平 ( 自由民主党、 宮澤派 )
法務大臣
前田勲男 ( 参、 自由民主党 小渕派 )
大蔵大臣
武村正義 ( 衆、 新党さきがけ )
文部大臣
与謝野馨 ( 衆、 自由民主党 渡辺派 )
厚生大臣
井出正一 ( 衆、 新党さきがけ )
農林水産大臣
大河原太一郎 ( 参、 自由民主党 渡辺派 )
通商産業大臣
橋本龍太郎 ( 衆、 自由民主党、 小渕派 )
運輸大臣
亀井静香 ( 衆、 自由民主党 三塚派)
郵政大臣
大出俊 ( 衆、 日本社会党 )
労働大臣
浜本万三 ( 参、 日本社会党 )
建設大臣
野坂浩賢 ( 衆、 日本社会党 )
自治大臣
野中広務 ( 衆、 自由民主党 小渕派 )
国家公安委員会委員長
野中広務 ( 衆、 自由民主党 小渕派 )
内閣官房長官
五十嵐広三 ( 衆、 日本社会党 )
内閣官房副長官【政務】
園田博之 ( 衆、 新党さきがけ )
内閣官房副長官【事務】
石原信雄
古川貞二郎【1995年2月24日 ‐ 】
内閣法制局長官
大出峻郎
総務庁長官
山口鶴男 ( 衆、 日本社会党 )
北海道開発庁長官
小里貞利 ( 衆、 自由民主党 宮澤派 )
小沢潔 ( 衆、 自由民主党 宮澤派 )【1995年1月20日 ‐ 】
防衛庁長官
玉澤徳一郎 ( 衆、 自由民主党 三塚派 )
経済企画庁長官
高村正彦 ( 衆、 自由民主党 旧河本派)
科学技術庁長官
田中真紀子 ( 衆、 自由民主党 無派閥 )
環境庁長官
桜井新 ( 衆、自由民主党 三塚派 )
宮下創平 ( 衆、 自由民主党 三塚派 )【1994年8月14日 ‐ 】
沖縄開発庁長官
小里貞利 ( 衆、 自由民主党 宮沢派 )
小沢潔【1995年1月20日 ‐ 】
国土庁長官
小沢潔
国務大臣【震災対策担当大臣】
小里貞利【1995年1月20日 ‐ 】( 閣内異動、 衆、 自由民主党 宮沢派 )

村山内閣の次の橋本内閣も96年10月の総選挙までは三党連立が続いたことも忘れられている。そして自民党が衆議院の過半数に満たなかったため、98年の参議院選挙まで、すなわち橋本内閣の最後まで社民党の閣外協力は続いたのである。それは消費税を5%にし、住専問題を解決し、構造改革路線を貫徹するのに責任を負う必要があると、当時の社民党は考えていたからである。消費税については自民党の方が無責任で、96年の選挙では多くの候補者が3%維持を無責任に主張していた。
自民党の立場からすれば、96年の選挙では251人が過半数のところ239人しか取れなかったところ、当時の幹事長の加藤紘一が今の細田幹事長や古賀に比べれば実ははるかに策士であって、新進党からどんどん議員を切り崩して最終的に260人クラスに持っていっている。そもそも新進党は殆どの地域で地方組織を作ることにも成功せず、同時期に解党に追い込まれるのだから、今の民主党よりはるかに弱いものだ。このころの小沢は全く神通力がなかったのが、今からすると不思議である。
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