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大正天皇実録について [皇室]

(再録)
天皇陵の場合と違って、今になって一部黒塗りで、関係者を憚って全面公開しない理由が分らない。誰にも歴史上の有名人には多くの子孫はいるだろうが、徳川さんが大阪に住んだらいじめられるということもないだろう。
生存者、関係者に影響があると言うが、『明治天皇紀』は明治天皇が死んでからそれほど経たず、明治百年、死語55年で全文が公開されている。
その14年後に死んだ大正天皇の実録が、未だに全面的に公開されないのは奇妙である。
現在、書陵部で編纂中の『昭和天皇実録』の公開は、もう少し待った方がいいと思うが。鋭意編纂中のようだ。前に東大史料編纂所の田島公氏から実録編纂の逸話を聞いたことがある。書陵部に勤務していた時代に昭和天皇の足跡の現地調査で各県の植樹祭の会場を訪ねて、山中の会場に行ったとか。
そもそも前に書いたように、昭和天皇の日記も少なくとも皇太子時代の欧州外遊まで(これは昭和天皇自身も記者会見で存在を認めている)、恐らくは戦後まで実在する(甘露寺受長説)ようだが、こっちの方が問題だ。

大正天皇「実録」3度目の公開

宮内庁は4日、大正天皇(1879~1926年)の行動やかかわった出来事などを年代順に記した「大正天皇実録」のうち、晩年に当たる5年7カ月分を公開した。 天皇や皇族などの個人情報に関するものは非公開とされ、同庁によると、公開された約16万字のうち約2%に当たる3084字が黒塗りとなった。
公開されたのは、大正天皇の体調が悪化した1921年(大正10年)7月から、逝去後に大葬が行われた27年(昭和2年)2月までの9冊(巻77~85、計643ページ)。
過去の公開でほとんど記載のなかった大正天皇の病状については、裕仁皇太子(後の昭和天皇)の摂政就任の記述の後に、「大正3年ごろより軽度の御発語御障害あり」などとし、その後姿勢が傾いたり、尿から糖分が検出されたりしたことなどを2ページにわたって記述。
しかし、21年11月21日に摂政就任に関する皇族会議の招集を皇太子に要請した人物については、
黒塗りとされた。

時事通信 2008/06/04-12:19
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2008060400229

(また拾い物)
116 大正天皇を語る上での必須知識① 2008/06/04(水) 15:44:32 ID:lvJISR9X0
長男 徳大寺実則
次男 西園寺公望
三男 住友友純

三人とも苗字は違うが、じつは血の繋がった三兄弟。
①本家を継いだ長男は侍従長をのべ30年近くもやった宮中の支配者なのに (他の侍従長は数年で交代している)ほとんど文献のない不気味な人物。やっと見つけた論文(宮内庁関係者の手になるもの)では、クドイほど彼が政治には無関係だったと書いているのだが、じつは若い頃岩倉の手先として相当工作じみた行動をとり一時失脚もしている。
②次男は首相に就任し、松方亡き後は唯一の元老として常に首相を指名したことで知られる。その首班指名はなんと東條の前の近衛内閣まで続いた。フランス留学中にフリーメーソンに入会したエピソードは有名。このときはパリコミューンに関係した有名な左翼教授の弟子だったのだが、一体誰が公家の彼をそんなところに送り込んだのか諸説あるがハッキリしない。
③さて三男だが、この住友財閥の当主が西園寺公望の弟だと言うことを
知ってビックリする人は多い筈だが、それぐらいメディアはこの事実に
あまり触れたがらない。住友家が絶えた時に大番頭の伊庭の工作で
徳大寺家から養子に貰ったというのが通説なのだが、それにしても・・・

宮中・政界・財界を支配するこの三兄弟の連携は、
明治末期から昭和前期にかけての日本史の転換点を理解するための
一つの鍵なのだが、アカデミズムは大衆の好奇心に対して
非常な警戒心丸出しで臨み、あまりこの部分に触れたがらない。
まず判明してる点としては、西園寺の政治資金が住友から出ていた事は
おそらく通説としてよい。西園寺東京駿河台邸は友純が兄のために新築。
京都田中の清風荘も1907年徳大寺家から住友が購入し、西園寺の
住居とする。この後西園寺は新館増築・庭園改造するが、それも住友が
もつ。1919年の興津荘も住友が資金を出す。建築設計も住友の技師だった。


127 大正天皇を語る上での必須知識③ 2008/06/04(水) 15:54:07 ID:lvJISR9X0
西園寺の手足として動いた事で知られる秘書の原田熊雄は、1926年に住友へ高級嘱託として入社してここから巨額の給料を貰う。住友の仕事はせずに西園寺の秘書として働くわけで事実上の資金供与とみていい。住友全社トップの湯川総理事からは「今後は老公の御用を主にし、
社用の方はもし余暇あらばの程度で充分です」の言葉もちゃんと貰ってる。
交際費・車代も住友持ち。住友本社には原田の事務室が設けられる

日本の近代史でひとつのターニングポイントになるのは、政友会立ち上げの後ぐらいで、この派の所属議員への政治資金の流れが、それまで伊藤の手を通じて(出所は三井というのが通説)渡されていたのが、ここからは西園寺を通じて渡されるようになる。このときもおそらく住友が資金を持っていたのではという推測は許されてよかろう。

一番資料が少ない本当に謎の人物は長兄の徳大寺実則なのだが、宮中某事件まで宮中で勢力を持ってきた山縣一派が失脚して、西園寺側が勝利を収めるには少なくともこの兄による下地作りがなければ、どうみても不自然なのだが・・・ ところが今刊行されてるものでは、彼は西園寺とは一度も会わなかったとクドイぐらい強調されている。
ところが徳大寺は大正天皇の扶育の任にあたったことでも知られる。
そして、それまで宮中で勢力をもっていた山県派が、西園寺系の親西欧派に破れた最大の原因は、実は大正天皇個人が老臣の山県を嫌悪した事にある。知的に必ずしも健全な状態とは言いたかった大正帝がなぜ山県を極端に嫌悪するに至ったかについては、一体どのような教育方針がとられたのかという事に関してきちんとした研究は現在タブーとなっている

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昭和天皇の日記 [皇室]

(再録)
富田メモの話題は旧聞ですが、けっきょく否定派の完全敗北に終わりました。これでフジサンケイ右翼の底の浅さが見えたことも有益でした。渡辺昇一以下ともいえる岡崎久彦のデタラメぶりが明らかになったわけです。
(どこがひどかったかというと、1988年4月の昭和天皇は病床で寝たきりで側近に意思など伝えられなかったというんですね。8月の戦没者慰霊祭にも出て言葉を述べているのに!)
これらの人たちにとっては、天皇陛下自身の考えなんてどうでもいいんでしょうね。世論を操作するためには。

ところで
甘露寺受長『天皇さま』講談社



(初版はこちら)


を読んでいると気になる記述があります。ちなみに著者は大正天皇のご学友で、父親代わりの侍従ともいえる人物です。
それによると学習院初等科の時代から昭和天皇は詳細な日記を付けているというのです。そして1960年代までは少なくとも絶え間なく付けていたというのです。
『大正天皇実録』すら墨塗りで公開されるくらいなので、公開はいつの日になるか分かりませんが、後世の歴史学にとっては大変な史料でしょう。
『西園寺公と政局』なんて吹っ飛んでしまいそう。
まだ吹上大宮御所(最近まで皇太后が住んでいた)にあるのでしょうか?もし書陵部にあっても、存在すら最高機密で公開されないでしょう。
まあ本当に皇室にとって大事なものは天皇自身かせいぜい侍従職の手を離れない大事なものは天皇の私宅である(吹上)御所に置いてあると見るべきでしょう。聖徳太子の『法華義疏』や『唐本御影』の扱いと同じです。これらの保管には書陵部も正倉院事務所も東山御文庫も関係ありません。

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歌会始め [皇室]

今年は、初めてNHK総合の中継で生で歌会始を見た。途中からだったので、儀式次第などを取り違えているかもしれない。

読師たちが国会の速記者みたいに中央のテーブルに集まっていたり、あの独特の音調など、やはり映像と音声がないと、さっぱり意味がないと思った。新聞記事や皇室本の記事では全く意味がない。詠まれた歌だけを字で見ても数パーセントの情報しか読み取ることができない。
(まあ儀式というものはそういうものだ。全体を通して見ないと分からない)

こういう順序で詠まれるようである。

一般の歌→召人→秋篠宮(皇族代表)→皇太子→皇后→天皇

という順番のようである。常陸宮とか高円宮妃など一般皇族の歌は、メディアに公表されるけど、儀式の場では詠まないということを初めて知った。
逆に皇太子妃は「病気」で欠席しているので、本人不在のまま歌だけが詠まれる。
人名の読み方も独特である。秋篠宮でなく「ふみひとのみこ」、皇太子ではなく「ひつぎのみこ」と呼ばれる。天皇については「おおみうた」と呼ぶだけだ。和文脈のややこしい皇太子の呼び方は、つい「のちのみこのみこと」こと高市皇子や、「ひなみしのみこのみこと」(でいいはず)こと草壁皇子を思い出してしまった。
一般人も「谷川の健一」のように、名字と名の間に「の」が入る。ただこれはおかしい。古代的・律令制的なカバネと中世的なミョウジを混同していると思う。

どうやら近代、特に昭和になってから作られた伝統も多いようだが、却って興味深い点もあるようだ。
以下の対談が非常に参考になる
丸谷才一・山崎正和「あけぼのすぎの歌会始」『半日の客 一夜の友』文春文庫・1998(初出1987)

もう一つ気になったことだが、出席する成年皇族が激減している。男性は順番に皇太子、秋篠宮、常陸宮であり、女性は秋篠宮妃、常陸宮妃、高円宮妃だけである。もう三笠宮夫妻は出席しないし、ヒゲ宮の妻子も出ていない。
そもそも寛仁親王は体が癌だらけで、ノドも手術して肉声を失ってしまった。麻生首相の妹の寛仁親王妃は皇太子妃の比でないほど重症な鬱病で、もう人前には出られないらしい。桂宮は車椅子生活で長らく歌会始めに出ていないし、もう男子皇族でまともに働けるのは秋篠宮だけのような状況である。
あと一人を忘れてはならない。もう93歳で、末っ子をなくし、二人の息子も病身の中で、老三笠宮のご健康が心配である。新年の宮中参賀にも出ていたのだが。

今上陛下と乗り物 [皇室]

Wikipediaの項目を久しぶりに見ていたら、ずいぶん情報が加わって詳細になっている。根拠が不明など、コメントすべき点も多いが、保存を兼ねて最後にコピペしておく。
・皇太子家との関係については推測が混じっている。
・プリンス自動車との関係は書いてあるが、現在の愛車がホンダ インテグラであることは書いていない。これは一昨年に週刊文春にも書かれたことがあるし、高齢者講習を受けたときの記事にも出ていた。

天皇陛下が運転免許更新のため講習
 
天皇陛下が、運転免許の更新のため70歳以上のドライバーを対象にした講習を受けられました。
陛下は、午後3時過ぎから30分あまり皇居・東御苑でメガネをかけ、愛車のグレーのインテグラを自ら運転して
講習を受けられました。陛下は、普段公務で外出されるときは御料車と呼ばれる車を使用するためハンドルを
握ることはめったにありません。
たまにお住まいの御所の近くを走る程度だという事ですが、宮内庁関係者によりますと「自転車よりもゆっくりと
慎重に走る安全運転」だということです。(05日18:18)

[5日19時44分更新]
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn/20070105/20070105-00000057-jnn-soci.html
(今は読めません)

マニアの間では先代の4ドアだとか、タイプRだとか、超レアのインテグラSJ(カナダのアキュラ仕様の6代目シビックをもう一度、国内仕様にしたもの)だとか妄想は広がっているようですが。いずれにせよ、北米ではアキュラブランドで販売されている高級車扱いの車を選んでいる辺りが渋い(インテグラがラインナップに入っているから、アキュラは高級ブランドじゃないという意見があるが、順序が逆である。北米アキュラ用に設計された車を、おまけで日本国内のホンダで販売しているだけである。セクレタリーカーではあるが、それにしては2万ドルを超える価格であり、そこそこ高価である)。
・学習院大学の卒業論文の話は典拠が不明。だいたい聴講生の立場で提出する必要があるのか?
・だいたい皇后陛下や昭和天皇に比べると驚くほど今の天皇ご自身のことは一般に知られていないし、取り上げた書籍も少ない。もともとあまりに民主主義的、護憲的姿勢が右翼から毛嫌いされていたので、触れられないのである。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E4%BB%81
明仁(あきひと、1933年(昭和8年)12月23日午前6時39分 - )とは、日本の今上天皇(第125代の天皇)。大勲位。昭和天皇と香淳皇后の第一皇子で、称号は継宮(つぐのみや)。印は榮(えい、桐の別名)。皇室典範に定める敬称は陛下。

目次 [非表示]
1 人物
1.1 誕生
1.2 即位
1.3 エピソード
1.4 発言
2 系譜
2.1 系図
3 著書
4 関連項目
5 外部リンク



人物
高齢にも関らず、公務、宮中祭祀ともに極めて旺盛に活動しており、天皇としての活動について非常に意欲的かつ勤勉であると伝えられることが多い。

歴代の天皇のなかでは明治天皇および特に昭和天皇に寄せる気持ちが強いようであるが、皇太子時代には後水尾天皇に言及したこともある。また即位十周年の会見で述べているように、戦中育ちとして先の大戦に寄せる気持には強いものがあり、過去に「6月23日(沖縄慰霊の日)、8月6日(広島原爆忌)、8月9日(長崎原爆忌)、8月15日(終戦記念日)の四つは忘れる事の出来ない日付である」旨の発言もある。島津家の血を引いていることから、沖縄への思いは深く、琉歌を幾つか詠んでいる。琉歌を詠んだ天皇は史上初めてである。

ハゼの分類学的研究者であり、日本魚類学会に属して28編の論文を同学会誌に発表している。平成12年(2000年)には海外誌Geneに第一著者として論文が掲載されている。また平成4年(1992年)にはScience誌に"Early cultivators of science in Japan"という題の寄稿を寄せている。

魚類学における業績は各国で評価されている。

昭和55年(1980年)、ロンドン・リンネ協会外国会員。昭和61年(1986年)、同協会名誉会員。
オーストラリア博物館リサーチ・アソシエート。
ロンドン動物学会名誉会員。
アルゼンチン自然科学研究所永久名誉会員。
この他にも平成10年(1998年)にはロンドン王立協会(ロイヤル・ソサエティ)からチャールズ2世メダルを受賞している。

昭和45年(1970年)からチェリストの清水勝雄に師事してチェロをたしなむほか、テニスをよくする(これは皇后と知り合うきっかけにもなった。いわゆる「テニスコートの恋」である)。1992年にジョージ・ブッシュ大統領が来日した際には、ブッシュ大統領とマイケル・アマコスト駐日大使とダブルスで対戦し、2ゲームに全勝したという。

誕生
宮城(現:皇居)内の産殿にて誕生。当時の皇室慣例により、満3歳で両親のもとを離れ、赤坂離宮構内の東宮仮御所で東宮傅育官によって育てられる。
昭和19年(1944年)、戦火の拡大により、はじめは栃木県日光市の田母澤御用邸に、後に奥日光・湯元の南間ホテルに疎開し、当地で敗戦を迎えた。終戦後帰京。皇太子は陸海軍少尉に任官するのが常であり、軍部からも要請があったが、昭和天皇の意向で任官していない。
昭和21年(1946年)10月から昭和25年(1950年)12月まで、昭和天皇の「西洋の思想と習慣を学ぶ」という方針に従い、アメリカ合衆国の著名な児童文学者にしてクエーカー教徒のエリザベス・グレイ・ヴァイニング(ヴァイニング夫人)(en:Elizabeth_Gray_Vining)が家庭教師として就き、その薫陶を受ける。これと前後して、学習院にやってきたアメリカ人教師に英語名(ジミーと伝わる)をつけられるのを拒否するというエピソードが起こっている。
昭和27年(1952年)11月10日、京都御所で立太子礼が行われた。
昭和28年(1953年)、イギリスのエリザベス2世の戴冠式に昭和天皇の名代として参列するために初の外遊。ヨーロッパおよび米国を歴訪。このとき身分は皇太子であったが、昭和天皇の名代の格式が加わっていたため、応接する諸国では天皇としての対応を行った。
昭和33年(1958年)11月、正田美智子との結婚を皇室会議で内定。
昭和34年(1959年)4月10日結婚。明治以降では初の皇族以外(華族出身でもない)での皇太子妃であった為に、また結婚に至る過程が報道されたこともあって国民的な「ミッチー・ブーム」がおこる。成婚のパレードは盛大に行われ、国民の心からの祝福を受けた。
昭和35年(1960年)に徳仁親王降誕。同年秋には皇太子妃美智子を伴ってアメリカ合衆国を16日間訪問旅行した。ホワイトハウスにも招かれている。
昭和38年(1963年)には第二子の流産もあり、また子育てには当時の皇太子妃美智子共々、苦労が多かった。
しかし昭和40年(1965年)、礼宮文仁親王が降誕。気さくな一方、幼少より帝王学教育を受け皇族としての自覚強く、皇統存続にも尽力する親王は夫妻の信頼篤く、関係は今日に至るまで極めて良好である。
昭和44年(1969年)には紀宮清子内親王が降誕。清子内親王は長く、夫妻の良き相談相手であった。両御子とその家族は今日に至るまで、天皇皇后のよき支えである。
昭和50年(1975年)、沖縄国際海洋博覧会に際し父帝も皇太子時代に訪れた沖縄を立太子後はじめて訪問。7月17日、皇太子妃美智子を伴いひめゆりの塔に献花のため訪れたところ、過激派から火炎瓶を投げつけられる(ひめゆりの塔事件)。このころから白髪であった。
即位
昭和天皇の崩御により、昭和64年(1989年)1月7日に皇位を継承。翌日、元号が平成に改められる。はじめて関東の地で即位した天皇である。即位に際しての混乱は全くなかった。朝見の儀での「国民と共に日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界平和、人類の福祉の増進を切に希望して止みません」という発言が話題となる。一方で、憲法の精神を守りつつ平成の天皇のあり方を模索している。イラクに派遣された自衛隊を皇后とともに接見した。これはPKOで派遣された自衛隊員、災害救助にあたった自衛隊員に対する接見はすでに行っているが、これは異例のことであり、昭和の頃には考えられなかったといわれている。また、政財界や学識者の内奏、進講、父の昭和天皇以上に受けている。「(憲法第4条すれすれの)ストライクゾーンに精一杯(ボール)を投げ込んでいる」(岩井克巳、文藝春秋より)とも評される。また昭和天皇が終戦で喪ったものを慰霊の旅を通して、昭和の負の遺産に向き合うことによって抱え込んでおり、その精励ぶりは歴代天皇では群をぬいている。
即位後も旺盛に国内外の訪問を行っている。平成5年(1993年)には昭和天皇の悲願であった沖縄行幸を果たし、平成15年(2003年)までに47都道府県のすべてを訪問している。

平成3年(1991年)
タイ、マレーシア、インドネシア。
平成4年(1992年)
中国。
この訪問は行うべきでなかったとの批判が強い。
平成5年(1993年)
イタリア、ベルギー、ドイツ。
平成6年(1994年)
アメリカ、フランス、スペイン。
平成9年(1997年)
ブラジル、アルゼンチン。
平成10年(1998年)
イギリス、デンマーク。
平成12年(2000年)
オランダ、スウェーデン。
平成14年(2002年)
ポーランド、ハンガリー。
平成17年(2005年)
サイパン島。
平成18年(2006年)
シンガポール、マレーシア、タイ
サイパン島訪問時、韓国人の団体が天皇の通り道に不敬な内容の横断幕を張り出したが、天皇を慕う地元のチャモロ族の猛然たる抗議を受けて取り外したというエピソードがある。
平成11年(1999年)に即位10周年を迎え、政府主催で11月20日に在位10年記念式典が開催、同日夜には二重橋で祝賀の声に応える一齣もあった。この折に、宮内庁は即位10年記録集『道』を刊行している。
平成7年(1995年)、大腸のポリープを摘出。後に前立腺癌であることが公表され、平成15年(2003年)1月18日に、前立腺の全摘出手術をおこなった。

エピソード
第五子にして初めて降誕した親王であっただけに、その誕生は非常な喜びをもって受け止められた。「皇太子さまお生まれなつた」(作詞:北原白秋/作曲:中山晋平)との歌までが作られたほどである。その奉祝ムードは実に盛大なもので、当時小学生であった老人などには前述の歌を未だに記憶しており、歌うことができる者もいるほどである。
誕生に際しては「日嗣の御子は生れましぬ」との和歌も詠まれており、生まれながらの皇太親王であった。
学習院初等科入学に際し、おかっぱに伸ばしていた髪を無断で刈られ数日間ふさぎこんでしまった。その後「これからは、だまってこんなことはしないでね」と精一杯の抗議をした。
戦時中は奥日光・湯元の南間ホテルに疎開した。この時、昭和天皇から手紙を送られている。
疎開先で戦況についての説明を受けた際、特攻に対して疑問を感じ、「それでは人的戦力を消耗する一方ではないか?」と質問して担当将校を返答に窮させたという。
敗戦時の玉音放送の際にはホテルの二階の廊下に他の学習院生と一緒にいたが、皇太子という立場を慮った侍従の機転によって(内容が内容だけに、何が起こるか分からない)御座所に引き返して東宮大夫以下の近臣と共に放送を聞いた。放送の内容には全く動揺を示さなかったが、放送が終わると静かに涙を流し、微動だにしなかったという。
その後、東宮大夫から玉音放送についての説明を受けると疾く悲しみから立ち直り、敗戦からの復興と国家の再建を率いる皇太子、将来の天皇としての決意を固めた。
1953年(昭和28年)6月2日のエリザベス女王戴冠式のために3月30日から外遊した結果、単位不足で進級できず学習院大学政経学部を中退。この為、最終学歴は「学習院大学教育ご修了」となっている。もっともその後も聴講生として大学には残った。
上記のエリザベス女王載冠式に伴うヨーロッパ外遊の際には太平洋航路の客船プレジデント・ウイルソン号(アメリカンプレジデント社、速度19ノット、排水量1万5395トン)に乗船。同船は三島由紀夫もこの2年前に乗船したことがあり、日本人とは縁の深い船であった。日本人向け遊具として囲碁板と石も積まれていたほどである。このときNHKは600ミリ望遠レンズを使用して、甲板に立つ皇太子の姿をアップで撮影することに成功して視聴者を驚かせた。船上では早稲田大学バレーボール部の面々と記念撮影をし、麻雀も楽しんだ。
欧州到着後はドイツでF1GPを観戦。主催者の提案により表彰式のプレゼンターも務め、優勝したジュゼッペ・ファリーナ(フェラーリ所属。戦前からの名選手で、1950年には初代F1チャンピオンを獲得している)を祝福している。日本人で初めてF1GPの表彰台に上がった人物である。平成初期のF1ブームを思うと、奇縁というべき出来事である。この時には、「競馬より面白い」との言葉を残している。
上記のエピソードからも分かるように自動車愛好家であり、プリンス自動車(現:日産自動車)のスカイラインとデイムラーのSOHCの2台を愛用した。
独身時代には愛車グロリアでドライブを楽しんでいた。軽井沢において学友の所有するアルファロメオを運転したこともある。このほかアコード、レジェンドクーペなど運転したことがあるとされる車種は非常に多く、自動車愛好家の天皇に寄せる思いが伝わる。
軽井沢までドライブした際には護衛としてパトカーに乗車した警察官が随伴したが、随伴する警察官の乗車するパトカーは性能に劣る国産車であったため、性能差からついていくのに必死の思いであったという。
通産9台のプリンスを御召料としている。嘗ての御料車がプリンス製の日産・プリンスロイヤルだったのはその縁である。
自動車評論家として知られる徳大寺有恒は、皇太子時代の天皇が運転するプリンス・スカイライン・スポーツとすれ違った体験を自著に書き残している。
現在でもビートルをまれに運転することがあるという。
鉄道に関する関心も深く、学習院大の卒論はヨーロッパの鉄道史に関する内容であったと言われる。
学生時代、(学習院高等科3年の試験が終わった日)学友である橋本明(橋本龍太郎の従兄弟)に「銀座にいきたい」と相談し、学友が「いつがいいか?」と尋ねると「今日がいい」と答えた。「一人ではなくもう一人つれていこう」と提案し、承諾(もう一人は千家崇彦)。新任だった東宮侍従濱尾実など仕えている周りの人間を「今宵、殿下を目白の方にご案内したい」など騙して抜け出すことに成功し、3人で銀座をぶらついた。このとき銀座4丁目あたりで慶応ボーイ4人と出会い、慶応ボーイは「殿下こんばんは」と挨拶したという。高級喫茶店「花馬車」で橋本の彼女と合流し皆で、お金を出し合い一杯99円のコーヒーを飲み、洋菓子屋「コロンパン」でアップルパイと紅茶を楽しんだり、満喫したようだが、当然ながらすぐに事件は発覚。大騒ぎになり、目的地を知り居場所を突き止められると、銀座にいた彼の周りに警官が20~30メートルおきに配置されてしまい、これ以上散策が出来なくなり終了した。もちろん、連れ出した学友2名が警察と皇室関係者に烈火のごとく叱られたのは言うまでも無い。これが有名な『銀ブラ事件』である。
ご成婚はテレビの普及に大きな役割を果たした。
アメリカ41代大統領ジョージ・H・W・ブッシュ・シニアと1992年の来日時に2回、テニスでダブルスの試合をしているが、2回とも勝利している。特に2回目のブッシュの敗北は彼にとってショックだったらしく、その夜に首相官邸で行われた晩餐会の席上にて倒れてしまった(もちろんテニスのことで倒れたわけではなく、インフルエンザ発症であったのだが)。このあと妻バーバラ・ブッシュがフォロースピーチでこの敗北ネタをジョークにするなどして話題を呼んだ。
皇太子時代、タイ王室からタイ国民の蛋白質不足について相談を受け、養殖の容易なティラピアを50匹寄贈した。タイではこのティラピアを大いに繁殖させて、バングラデシュの食糧危機に際して50万匹を寄贈した。のちにこの魚には華僑によって「仁魚」という漢名がついた。
靖国神社には皇太子時代に5回参拝しているが、即位後は参拝していない。
雲仙普賢岳噴火の際には、島原からの避難民を地に膝を着いて見舞った。
阪神淡路大震災に際しても地に膝をついて被災者を見舞った。このエピソードは海外の新聞にも大きく取り上げられ、被災者は天皇の慰めに涙を流したと伝えられた。この際には動転した被災者が皇后に抱きつくという出来事もあったが、咎めることなく暖かく見守り、黙って許した。
チェロの師である清水勝雄の死に際しては追悼演奏を行い、故人を偲んだ。会見においても、その人柄を回想していた。
徳仁親王との関係は同親王の昭和天皇の意志に背いた結婚以来、同親王の妃にして皇太子妃となっている雅子の存在も手伝って極めて疎遠となっている。昨今では苦言とも深い怒りとも理解できる内容の発言もなされている。
上記のように徳仁親王家との間が極めて疎遠になっていることから、愛子内親王との会う機会、時間が少なくなっていることを慨嘆する発言をしている。2006年に生物学研究所の陸稲(おかぼ)の田植に愛子内親王が手伝いにきた時には、大変な喜びようであったといわれる。しかし宮内庁職員組合の文化祭では愛子内親王の紙粘土の宝石箱を見なかった。東宮職が皇居までそれを届けると「良くできていますね」と発言。その後「でも、本人が持って来て見せてくれればもっと良かったのに」と発言した。昨今では内親王の称号を呼ばず名前を直接呼んでいる。
徳仁親王家との関係の悪化や平成の皇室にまつわる諸問題に憂慮しており、夜に眠れないこともあり、侍医に睡眠薬を処方してもらうことも多いという。2005年、皇籍を離れる前の最後の誕生日会見において紀宮清子内親王は天皇のこうした状況を気遣う発言をした。この発言には多くの国民が支持を寄せている。
一方で秋篠宮家との関係は極めて良好であり、悠仁親王の降誕時には公務にて北海道を訪れていたが、国民の祝福の声に対してその場に立ち止まって何度も「ありがとう」と答え手を振り、大きな喜びを表した。この場面が報道された後、インターネットの掲示板やブログにはこの日を含め多くの公務に精励する天皇の健康を気遣う書き込み、これまでの心痛を思う書き込みが多数なされた。

発言
『ご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げられる方』(昭和33年(1958年)11月27日)
婚約記者会見でどういう所に魅力を感じたかを訊かれて、美智子妃の皇太子評。流行語にもなった。
『国民と共に日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界平和、人類の福祉の増進を切に希望して止みません』(平成元年(1989年)1月9日)
『皆様が雨に濡れて寒いのではと案じています』(平成11年(1999年)11月20日、在位十年記念式典で)
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」(2001年12月)
「私にとっては沖縄の歴史を紐解くということは島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです。沖縄県の人々にそのような気持ちから少しでも力になればという思いを抱いてきました」(2003年12月23日)(注:香淳皇后の母が島津家の出身である)
「やはり、強制になるということではないことが望ましい」(2004年10月28日 園遊会で)
将棋連盟会長・東京都教育委員の米長邦雄の「日本中の学校に国旗を掲げ、国歌を斉唱させるのが私の仕事です」という発言に対して。
「日本は昭和の初めから昭和20年の終戦までほとんど平和な時がありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって、また日本人が世界の人々と交わっていく上にも極めて大切なことと思います。戦後60年に当たって過去の様々な事実が取り上げられ、人々に知られるようになりました。今後とも多くの人々の努力により過去の事実についての知識が正しく継承され、将来にいかされることを願っています」(2005年12月19日)
「皇室の中で女性が果たしてきた役割については、私は有形無形に大きなものがあったのではないかと思いますが、皇室典範との関係で皇室の伝統とその将来についてという質問に関しては、回答を控えようと思います。私の皇室に対する考え方は、天皇及び皇族は、国民と苦楽を共にすることに努め、国民の幸せを願いつつ務めを果たしていくことが(中略)、皇室の伝統ではないかと考えているということです」(同上)
「戦前と今日の状況では大きく異なっている面があります。(中略)戦前は議員や国民が自由に発言することは非常に難しかったと思います。先の大戦に先立ち、このような時代のあったことを多くの日本人が心にとどめ、そのようなことが二度と起こらないよう日本の今後の道を進めていくことを信じています」(2006年6月6日)
東南アジア訪問前の記者会見で、「教育基本法改正に伴い愛国心の表現を盛り込む事が、戦前の国家主義的な教育への転換になるのでは」という在日外国報道協会代表質問に対し。
「皇太子の記者会見の発言を契機として事実に基づかない言論が行われ、心の沈む日も多くありました(中略)苦しいことでした」(2006年の天皇誕生日)
「残念なことは、愛子は幼稚園生活を始めたばかりで、風邪をひくことも多く、私どもと会う機会が少ないことです(中略)いずれ会う機会が増えて、打ち解けて話をするようになることを楽しみにしています」(2006年天皇誕生日)

(以上の項目は一昨年の記事の再録です)

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