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大正天皇実録について [皇室]

(再録)
天皇陵の場合と違って、今になって一部黒塗りで、関係者を憚って全面公開しない理由が分らない。誰にも歴史上の有名人には多くの子孫はいるだろうが、徳川さんが大阪に住んだらいじめられるということもないだろう。
生存者、関係者に影響があると言うが、『明治天皇紀』は明治天皇が死んでからそれほど経たず、明治百年、死語55年で全文が公開されている。
その14年後に死んだ大正天皇の実録が、未だに全面的に公開されないのは奇妙である。
現在、書陵部で編纂中の『昭和天皇実録』の公開は、もう少し待った方がいいと思うが。鋭意編纂中のようだ。前に東大史料編纂所の田島公氏から実録編纂の逸話を聞いたことがある。書陵部に勤務していた時代に昭和天皇の足跡の現地調査で各県の植樹祭の会場を訪ねて、山中の会場に行ったとか。
そもそも前に書いたように、昭和天皇の日記も少なくとも皇太子時代の欧州外遊まで(これは昭和天皇自身も記者会見で存在を認めている)、恐らくは戦後まで実在する(甘露寺受長説)ようだが、こっちの方が問題だ。

大正天皇「実録」3度目の公開

宮内庁は4日、大正天皇(1879~1926年)の行動やかかわった出来事などを年代順に記した「大正天皇実録」のうち、晩年に当たる5年7カ月分を公開した。 天皇や皇族などの個人情報に関するものは非公開とされ、同庁によると、公開された約16万字のうち約2%に当たる3084字が黒塗りとなった。
公開されたのは、大正天皇の体調が悪化した1921年(大正10年)7月から、逝去後に大葬が行われた27年(昭和2年)2月までの9冊(巻77~85、計643ページ)。
過去の公開でほとんど記載のなかった大正天皇の病状については、裕仁皇太子(後の昭和天皇)の摂政就任の記述の後に、「大正3年ごろより軽度の御発語御障害あり」などとし、その後姿勢が傾いたり、尿から糖分が検出されたりしたことなどを2ページにわたって記述。
しかし、21年11月21日に摂政就任に関する皇族会議の招集を皇太子に要請した人物については、
黒塗りとされた。

時事通信 2008/06/04-12:19
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2008060400229

(また拾い物)
116 大正天皇を語る上での必須知識① 2008/06/04(水) 15:44:32 ID:lvJISR9X0
長男 徳大寺実則
次男 西園寺公望
三男 住友友純

三人とも苗字は違うが、じつは血の繋がった三兄弟。
①本家を継いだ長男は侍従長をのべ30年近くもやった宮中の支配者なのに (他の侍従長は数年で交代している)ほとんど文献のない不気味な人物。やっと見つけた論文(宮内庁関係者の手になるもの)では、クドイほど彼が政治には無関係だったと書いているのだが、じつは若い頃岩倉の手先として相当工作じみた行動をとり一時失脚もしている。
②次男は首相に就任し、松方亡き後は唯一の元老として常に首相を指名したことで知られる。その首班指名はなんと東條の前の近衛内閣まで続いた。フランス留学中にフリーメーソンに入会したエピソードは有名。このときはパリコミューンに関係した有名な左翼教授の弟子だったのだが、一体誰が公家の彼をそんなところに送り込んだのか諸説あるがハッキリしない。
③さて三男だが、この住友財閥の当主が西園寺公望の弟だと言うことを
知ってビックリする人は多い筈だが、それぐらいメディアはこの事実に
あまり触れたがらない。住友家が絶えた時に大番頭の伊庭の工作で
徳大寺家から養子に貰ったというのが通説なのだが、それにしても・・・

宮中・政界・財界を支配するこの三兄弟の連携は、
明治末期から昭和前期にかけての日本史の転換点を理解するための
一つの鍵なのだが、アカデミズムは大衆の好奇心に対して
非常な警戒心丸出しで臨み、あまりこの部分に触れたがらない。
まず判明してる点としては、西園寺の政治資金が住友から出ていた事は
おそらく通説としてよい。西園寺東京駿河台邸は友純が兄のために新築。
京都田中の清風荘も1907年徳大寺家から住友が購入し、西園寺の
住居とする。この後西園寺は新館増築・庭園改造するが、それも住友が
もつ。1919年の興津荘も住友が資金を出す。建築設計も住友の技師だった。


127 大正天皇を語る上での必須知識③ 2008/06/04(水) 15:54:07 ID:lvJISR9X0
西園寺の手足として動いた事で知られる秘書の原田熊雄は、1926年に住友へ高級嘱託として入社してここから巨額の給料を貰う。住友の仕事はせずに西園寺の秘書として働くわけで事実上の資金供与とみていい。住友全社トップの湯川総理事からは「今後は老公の御用を主にし、
社用の方はもし余暇あらばの程度で充分です」の言葉もちゃんと貰ってる。
交際費・車代も住友持ち。住友本社には原田の事務室が設けられる

日本の近代史でひとつのターニングポイントになるのは、政友会立ち上げの後ぐらいで、この派の所属議員への政治資金の流れが、それまで伊藤の手を通じて(出所は三井というのが通説)渡されていたのが、ここからは西園寺を通じて渡されるようになる。このときもおそらく住友が資金を持っていたのではという推測は許されてよかろう。

一番資料が少ない本当に謎の人物は長兄の徳大寺実則なのだが、宮中某事件まで宮中で勢力を持ってきた山縣一派が失脚して、西園寺側が勝利を収めるには少なくともこの兄による下地作りがなければ、どうみても不自然なのだが・・・ ところが今刊行されてるものでは、彼は西園寺とは一度も会わなかったとクドイぐらい強調されている。
ところが徳大寺は大正天皇の扶育の任にあたったことでも知られる。
そして、それまで宮中で勢力をもっていた山県派が、西園寺系の親西欧派に破れた最大の原因は、実は大正天皇個人が老臣の山県を嫌悪した事にある。知的に必ずしも健全な状態とは言いたかった大正帝がなぜ山県を極端に嫌悪するに至ったかについては、一体どのような教育方針がとられたのかという事に関してきちんとした研究は現在タブーとなっている

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