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日本文学と日本史業界の違い [近代史]

(以下は1月の記事再録)
渋谷近くのAG大学で研究会をやった時のできごとである。

某校舎10Fのいつもの会場(違うこともある)の会議室の脇が日本(近代?)文学の研究室らしく、そこの所属学生向けの掲示板がある。
今の時期ならではで、卒業論文審査の日程と内容(正確な題名は示されず。それとも国文学では「○××論」という題名で卒論を書くのが慣例なのかな?)がそこに掲示されていた。


何と卒業論文のテーマの半分以上が「宮崎駿論」だった。少ないが「富野某論」もあった。どれだけアニヲタだらけなんだろうか?次に多いのが「村上春樹論」で、少々は「夏目漱石論」など正統的な内容もあった。
姓だけの掲示だったので性別が分からないが、国文学科だし殆どが女子学生だろう。

研究対象としてはちょっと現在進行形すぎるのではないかと思う。が、戦前に東京帝国大学文学部国文学科を(学徒出陣で繰り上げ)卒業した阿川弘之は、卒業論文の題目を「志賀直哉研究」で提出している。
当時の志賀直哉は代表作の『暗夜行路』を完結させてから程なく、50代の現役の作家であった。88歳まで生きた志賀直哉にとってはまだ壮年時代である。そんな頃でも同時代の作家を題材とした卒業論文が東大で許容されたのである。
さらに類例を探すと、1929年にやはり東大の国文科を卒業した堀辰雄の卒業論文は「芥川龍之介論」であった。これは、筑摩書房の完全といっていい堀辰雄の全集に入っているはず。より同時代性が強い内容である。
適当なソースがないので、とりあえず。
http://wiki.livedoor.jp/horitatuo/d/%CB%D9%C3%A4%CD%BA%B4%CA%B0%D7%C7%AF%C9%BD

これに対し、東大の国史学科では戦後まで近代史の卒業論文は許容されないことが知られていた。近代史学者(で大久保利通の直系の孫)の大久保利謙の自伝(岩波新書)にこの雰囲気はサラリと書かれており、戦国大名についての論文を書いている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E8%AC%99
井上清の「近代兵制改革史」辺りが初めての近代史の卒業論文であろう。

国文科が同時代の文学を論文の対象とすることを認めるのは、恐らく外国文学研究の影響と考えられる。
戦前にトーマス・マンを独文科の研究の対象とすることはおかしくなかったし、プルーストを1920年代に研究するのも、フランス文学研究の最先端と捉えられることはあっても、否定されなかったであろう。大江健三郎の仏文科の卒論は「サルトルの想像力」である。
当時のサルトルはもちろん存命であり、卒業程なくヨーロッパを旅行した大江健三郎はパリ滞在中に三回もサルトルに会っている
(このことを、大江は直後に発表された旅行記にしか書いていないので、あまり知られていない。なお大江は、まだ25歳かの時に、毛沢東にも恐らく単独で会見するという日本の文化人ではありえない待遇を受けている)
大江の指導教官は、フランスルネッサンス文学の謹厳な研究者である渡辺一夫であり、大江は恩師の生涯親炙している。ただし「君は研究には向かないね。創作の方が向いている」と言われたらしい。渡辺一夫は戦前の若い頃には学生に厳しかったらしく、中村真一郎が卒業直後にネルヴァルの翻訳の疑問を訊ねると
「(そんなレベルのフランス語を理解できないとは)君はそれでも文学士ですか?」
といったという。慌てて副手の森有正がとりなしたらしい。
まあ、大江健三郎は大学在学中に芥川賞を受賞しており、むしろ褒め言葉であろう。

さて話を戻すと、研究の同時代性を重視するという外国文学研究の風潮は国文学にも及んだと捉えるべきであろうか?けっこう日本史と西洋史などで教員同士の交流があるように、文学畑でもあるものだろうか?

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