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ソ連政治局員の夢  [近代史]

1910年代生まれで、高等商業か東亜同文書院卒業後にソ連に帰化した日本人がいた。夢はその人物の視点で進む。 スターリンの粛正を研究に沈潜することで逃げのびる。そしてスターリン時代が終わるとライバルはみな政治的に失脚してしまい、ソ連で脚光を浴びる存在となる。
なぜか研究機関の所属からソ連共産党の幹部になり、自分の知らぬ間にスターリン大粛清の後を埋める形で政治局員になってしまう(日本人でありうることだったのか?)。

ロシア語が翻訳コンニャクを食べたみたいに日本語で聞こえてくるし、ソ連の町並みの風景が映画なみにビビッドに見える不思議な夢だった。前に見たモスクワの現代史博物館の展示あたりに影響を受けてしまったのだろうか?
見たばかりのものが長く脳裏に沈殿しないと、夢の中で影響力は持ち得ないようである。昨日や今日の経験は夢では断片としてしか出てこない。

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隠された鉄道路線?? 近鉄南南大阪線 [近代史]

(再録)
たまにありもしない路線、地域の夢を見るが、今回は具体的でよく覚えている。

何かの合宿に行くか何かのアクセス手段として、南大阪のある路線に乗ろうとしている。谷町線か御堂筋線の途中駅からアクセスする。昔はインターアーバンとして大阪市電と直通していた時代もあるらしい。南海平野線と比較して触れることの多い路線だ。
接続部分の立派な高架橋の連絡線が何十年も放置されている。
この路線は今は近鉄の運営で、御所か河内長野あたりで近鉄南大阪線につながっているが、現在は南海汐見橋線のように閑散化している。大阪市内のターミナルはセンターリザベーションの併用軌道であるが、中途半端にエスカレーター、エレベーターなどのバリアフリー設備を含めて路上に巨大な橋上駅舎がある。
あまりに閑散化したあげくに、殆どの昼間の便がバス代行となっている。乗る便は時刻表の上では急行だが、それは並行する幹線道路を疾走する代行バスの都合でそうなっているだけだった。
20年もののボロイマイクロバスだが、座席だけロマンスシート仕様で豪華な不思議な車両が運用されていて、併用軌道の乗り場に来る。1時間に1本しかないので満席である。
発車すると国道バイパスを疾走し、30分20キロほどノンストップである。
(ここで目が覚める)

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工藤美代子の著作について [近代史]

今や日本を代表する伝記作家だと言ってもいいと思うが、近衛文麿の伝記
(『われ巣鴨に出頭せず』)



など、先達の角田房子などに比べると、資料収集の不足による二次引用だらけのやっつけ仕事と思われるものも多く、面白いかどうかは題材によると思う。文筆業の宿命ともいえるが。

堀口大学とその父の伝記の方がお勧めである。
工藤美代子『黄昏の詩人 堀口大學とその父のこと』マガジンハウス・2001

こちらは題材が面白い割りには、本人の著書以外にはあまり知られていないネタ満載で興味深い。

1991年に出たハーバート・ノーマンの伝記が文庫化されている。 この手の文庫本も直ぐ品切れになるので、お求めの方はお早めに。

スパイと言われた外交官 ─ハーバート・ノーマンの生涯


岩波書店から1991年に単行本が出たときの題名が
『悲劇の外交官』 であった。


だいぶニュアンスが違うと思う。筑摩書房が今になって商業的に付けた題なのか、あるいは初版の時に岩波書店が著者の意図に反して付けた題なのか不明である。
商業的に付けられた題名が、内容を歪めているのは
黄長燁『金正日への宣戦布告』文芸春秋

なみである。
(この本は北朝鮮問題では必読です、主体思想の最大の理論構築者であり、日本でいえば東京大学総長と参議院議長をした人物が亡命に踏み切った深い背景が分かる。)

工藤美代子の本が現在のところ標準的なノーマンの伝記である。
初版が出た当時よりもm近年の研究ではノーマンは、疑われたようにソ連のスパイであった可能性は高いようである。
木戸幸一、都留重人と共謀して戦争責任を押し付け、近衛を死においやったとして、ノーマンを非難する趣旨で、そのものズバリの本も出ている。

(工藤の近衛文麿伝にも同様の推測が述べられている)
ただソ連は第二次大戦以前から、社会の各方面にわたって世界中に驚くほどのスパイを送り込んでいたことは、ソ連崩壊後に知られるようになった。日本では共産党の最高指導者 野坂参三が100歳を超えてからスパイであったことが発覚し、狡猾な後継者(元から野坂はお飾り程度の存在だったが)宮本顕治に党籍とすべての名誉を剥奪された例は有名だが、ノーマン程度のスパイ嫌疑は瀬島龍三など多くの大本営参謀にもかけられているといっていいと思う(これ以上言うと桜井よし子レベルになってしまうが)。ただ、本来的にスパイとは二重スパイたらざるをえないものであり、禁断の情報に接しようと試みる、ある種のタイプの優秀な人間はたまらなくスパイの魅力に引き寄せられてしまうものなのだろう。
死者に口なしというが、最近に93歳で死んだ都留重人とノーマンのみを批判するのには、マッカーシズムと同レベルの政治的意図があると考えられる。
(今や都留の留学時代を知るのは、19歳でハーバード大学を卒業した年少の留学生だった鶴見俊輔だけだ。ハーバード時代については、鶴見もまだ語るべきことがあるように思われる)

一番肝心な点だが、ノーマンが本当にスパイであったとしても、彼の人格、類を見ないほどの人文的教養の溢れた文章の価値が減ぜられることはない。アメリカ政府から執拗にノーマンのスパイ疑惑を追及された際に、カナダ外務省が必死に彼をかばったのは、やはり余人をもってかえがたい外交官としての能力があったからである。
だいたい30歳くらいまで歴史学の研究にふけって高等遊民状態だった人間が外務省に入ると、ほどなく30代半ばでカナダの駐日代表(カナダ大使館では歴代駐日大使の一人として扱われている)になり、サンフランシスコ講和会議のカナダ代表団の次席代表に選ばれたのは、尋常のことではあるまい
(同じような年齢で、当時の政府の中心機関だった経済安定本部の次官になった都留重人も相当のものだが)
それだけの能力と人格があったのだろう。マッカーサーからの強い信頼もうなずけるというものである。

(以下はずっとレベルの落ちる話なので、高潔な人は読まない方が賢明です)
ちくま文庫は文庫化の際に、ちゃんと文庫版のあとがきや補筆、解説が付くので、今回も期待していた。ところがあまりこの内容に適任とも思えない深田祐介だという。さっそく立ち読みしてみると、ひどい内容であった。中途半端にませた中学生の感想文みたいな内容である。
「ハーバート・ノーマンはライシャワー大使に比べると知名度はゼロに近い。読書界の盲点だったノーマンの生涯をまとめた工藤氏は偉い。」
といった内容である。あまりの無知蒙昧ぶりに立ち読みしながら吹き出しそうになった。それは深田が無知なだけで、ライシャワーがどんな人物かそれなりに知っている人間なら、ノーマンは知っているのが当然だ。
検索の結果でも以下のようだが、いかがであろうか?

ライシャワー の検索結果 約 81,500 件中 1 - 10 件目 (0.10 秒)
E・H・ノーマン の検索結果 約 97,500 件中 1 - 10 件目 (0.03 秒)

なおノーマンは日本の左翼が称揚しているだけであって、欧米では誰も知らないという説もあるので、英語でも調べてみる。
”Edwin O Reischauer” の検索結果 約 56,800 件中 1 - 10 件目 (0.09 秒)
”Herbert Norman” の検索結果 約 28,500 件中 1 - 10 件目 (0.04 秒)
このような検索で妥当だと思われる。

Wikiの英語版の記述も日本語より詳しい。英語に堪能な日本人が投稿したものである可能性も考慮してみたが、英語版では都留重人の項目も立っていない所を見ると、独立して欧米で書かれた項目であろう。
だいたい外交官としての履歴に注目した記述であり、日本にはそれほど力点は置かれていない。著書が紹介されているだけである。

Edgerton Herbert Norman (September 1, 1909 in Karuizawa - April 4, 1957, in Cairo). Born in Japan to Canadian Methodist missionaries, Norman eventually became a Canadian diplomat and historian. After studies at Victoria College at the University of Toronto, and Trinity College at Cambridge University, he entered the graduate program in Japanese history at Harvard University in 1936, where he studied under Edwin O. Reischauer. He joined the Canadian foreign service in 1939 and earned his doctorate in 1940.

His first post was with the Canadian Legation in Tokyo. Following the attack on Pearl Harbor in December 1941, Norman was interned by the Japanese authorities and he was not repatriated to Canada until mid-1942, where he continued to work in the Department of External Affairs. During the allied occupation of Japan after its defeat in the war, Norman served as a Canadian representative in the SCAP and worked under the direction of Douglas MacArthur. He also became the first post-war president of the Asiatic Society of Japan.

Between 1950 and 1952, during the McCarthy Era, Norman was suspected of being a Communist and possibly a Soviet agent, but was eventually exonerated by the Canadian authorities and allowed to resume his duties in the Canadian foreign service. In 1957, these suspicions were revived in the United States Senate Sub-Committee on Internal Security. In April of the same year he committed suicide in Cairo by leaping from a building, where he had been serving as Canada's ambassador to Egypt. The circumstances surrounding Norman’s death continue to provoke controversy today. Dr. John Howes has suggested during a lecture for the Asiatic Society of Japan that Norman took his life because he was concerned that the Communist alegations could jeapardize the negotions during the Suez Crisis.[1]

Alongside his diplomatic activities, Norman remained an active scholar and wrote a number of works on Japanese history, which are still highly regarded by many historians.

Contents
1 Representative works
2 Further reading
3 References
4 External links

Representative works
Japan's Emergence as a Modern State: Political and Economic Problems of the Meiji Period. New York: International Secretariat, Institute of Pacific Relations, 1940.
Soldier and Peasant in Japan: The Origins of Conscription. New York: International secretariat, Institute of Pacific Relations, 1943.
Andô Shôeki and the Anatomy of Japanese Feudalism. Washington: University Publications of America, 1979.

Further reading
Bowen, Roger W. Innocence Is Not Enough: The Life and Death of Herbert Norman. Vancouver: Douglas & McIntyre, 1986.
Maruyama Masao. "An Affection for the Lesser Names: An Appreciation of E. Herbert Norman (in Notes and Comment)." Pacific Affairs, September 1957, 249-53.

References
^ John Howes (1994-12-12), Japan in Canadian Culture, Canadian Embassy, Tokyo, Japan: The Asiatic Society of Japan


これで忘れられているとは、深田の不見識である。こんな解説を通す、ちくまもちくまである。最近のちくま新書の崩壊ぶりを連想してしまう。

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日本文学と日本史業界の違い [近代史]

(以下は1月の記事再録)
渋谷近くのAG大学で研究会をやった時のできごとである。

某校舎10Fのいつもの会場(違うこともある)の会議室の脇が日本(近代?)文学の研究室らしく、そこの所属学生向けの掲示板がある。
今の時期ならではで、卒業論文審査の日程と内容(正確な題名は示されず。それとも国文学では「○××論」という題名で卒論を書くのが慣例なのかな?)がそこに掲示されていた。


何と卒業論文のテーマの半分以上が「宮崎駿論」だった。少ないが「富野某論」もあった。どれだけアニヲタだらけなんだろうか?次に多いのが「村上春樹論」で、少々は「夏目漱石論」など正統的な内容もあった。
姓だけの掲示だったので性別が分からないが、国文学科だし殆どが女子学生だろう。

研究対象としてはちょっと現在進行形すぎるのではないかと思う。が、戦前に東京帝国大学文学部国文学科を(学徒出陣で繰り上げ)卒業した阿川弘之は、卒業論文の題目を「志賀直哉研究」で提出している。
当時の志賀直哉は代表作の『暗夜行路』を完結させてから程なく、50代の現役の作家であった。88歳まで生きた志賀直哉にとってはまだ壮年時代である。そんな頃でも同時代の作家を題材とした卒業論文が東大で許容されたのである。
さらに類例を探すと、1929年にやはり東大の国文科を卒業した堀辰雄の卒業論文は「芥川龍之介論」であった。これは、筑摩書房の完全といっていい堀辰雄の全集に入っているはず。より同時代性が強い内容である。
適当なソースがないので、とりあえず。
http://wiki.livedoor.jp/horitatuo/d/%CB%D9%C3%A4%CD%BA%B4%CA%B0%D7%C7%AF%C9%BD

これに対し、東大の国史学科では戦後まで近代史の卒業論文は許容されないことが知られていた。近代史学者(で大久保利通の直系の孫)の大久保利謙の自伝(岩波新書)にこの雰囲気はサラリと書かれており、戦国大名についての論文を書いている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E8%AC%99
井上清の「近代兵制改革史」辺りが初めての近代史の卒業論文であろう。

国文科が同時代の文学を論文の対象とすることを認めるのは、恐らく外国文学研究の影響と考えられる。
戦前にトーマス・マンを独文科の研究の対象とすることはおかしくなかったし、プルーストを1920年代に研究するのも、フランス文学研究の最先端と捉えられることはあっても、否定されなかったであろう。大江健三郎の仏文科の卒論は「サルトルの想像力」である。
当時のサルトルはもちろん存命であり、卒業程なくヨーロッパを旅行した大江健三郎はパリ滞在中に三回もサルトルに会っている
(このことを、大江は直後に発表された旅行記にしか書いていないので、あまり知られていない。なお大江は、まだ25歳かの時に、毛沢東にも恐らく単独で会見するという日本の文化人ではありえない待遇を受けている)
大江の指導教官は、フランスルネッサンス文学の謹厳な研究者である渡辺一夫であり、大江は恩師の生涯親炙している。ただし「君は研究には向かないね。創作の方が向いている」と言われたらしい。渡辺一夫は戦前の若い頃には学生に厳しかったらしく、中村真一郎が卒業直後にネルヴァルの翻訳の疑問を訊ねると
「(そんなレベルのフランス語を理解できないとは)君はそれでも文学士ですか?」
といったという。慌てて副手の森有正がとりなしたらしい。
まあ、大江健三郎は大学在学中に芥川賞を受賞しており、むしろ褒め言葉であろう。

さて話を戻すと、研究の同時代性を重視するという外国文学研究の風潮は国文学にも及んだと捉えるべきであろうか?けっこう日本史と西洋史などで教員同士の交流があるように、文学畑でもあるものだろうか?

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