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唐代の官制とオーケストラの各種称号 [歴史学]

池田温先生の
「律令官制の成立」世界歴史5・岩波書店・1970
を読み返したら、前に読んだとき(何回も読んでいるのに、論文の密度が濃すぎて、なかなか対応できない)にはあまり気が止まらなかった一文が気になった。

それは、以下のような論旨である。
伊藤東涯の『制度通』以来、内藤湖南も含めて日本の唐の官制理解は、
「これとこれの官司の職掌が重複している」
「三師三公は実権を伴わない名誉のみの官で無意味だ」
といった冗官の批判論が主流であり、単純明快に整理された日本の太政官制の構想はすばらしいという日本自賛論と結び付けられている。しかし秘書省なども文人の人的貯蔵庫としての機能を果たしているし、中国独自の監督官司と実務官司の分離で説明の付くものが多い。周代にはひとつで済んでいた官司がいくつかに分化しているのは、社会・行政が複雑になったことの反映であって、それなりの意味はあるものとして評価されるべきである。すべての官司・官職には当時の社会の多様な要請に応じて存在していたものであり、冗官だとして切り捨てるべきではない。

近年は行政改革論ばかりが世間で正義のように思われているので、古代史論としても私の研究の視角には心強い応援となる内容である。
これに類似したものとしてNHK交響楽団に代表されるような、オーケストラの指揮者のインフレ化、複雑化した称号がある。
終身正指揮者 桂冠指揮者 終身名誉指揮者などなど
(海外のオーケストラでも同様で、それぞれに英訳があるよう)
実はただの音楽監督とか正指揮者が一番、実権があって、オーケストラの運営にも関わっていることが多い。そうのだが、偉い客演指揮者の引きとめなどのためには、偉そうな肩書きをたくさん用意しておく必要があるのである。NHK交響楽団だと、ある時期以降の岩城弘之なども定期公演などからは完全に干されていたけど、正指揮者を40年以上続けていることを誇りにしていたよう。
これも無駄なようだが、オーケストラの運営には必要不可欠な官制(www)として捉えることができよう。

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2006年史学会大会・シンポジウム参加記 [歴史学]

(以下は再録です。周回遅れをご容赦をば)

午前午後とも、法文2号館1番大教室に陣取る。
午前は日本古代史・中世史部会である。
史学会のサイトで時間を確認してから出かけたが、30分前から始まっていた。
どうやらサイトが間違っていたらしい。一人目の北村さんの発表が聞けなかった。残念である。
ただ、内容は古代寺院の土地所有についての個別研究で、論旨もよく整理されていたので、レジュメでよく理解できた。
二人目の須原さんの報告を注力して聞く。こっちは孝徳朝の立評記事についてのもの。須原氏は郡司の任命実態を調査し、実証面からいわば在地首長制を根幹から否定しようとしている人である。
基本的に『日本書紀』の記事を限定付き(国造がそのまま評督になったわけではない)で史実と認めようという趣旨。けっこう議論になりそうなテーマだったが、そのタイミングで改新論の論客がそれほで揃っていたわけでもないこともあり、あまり議論にはならず(歴研などの場では、議論の収拾がつかなさそう)。ただ今回の発表で出された材料だけでは証明にならないと思う。もちろんS原さんは他の傍証がたくさんあったうえで全体の理論構成をしているのであろうが、今回の発表だけでは保留状態だろうと思う。北大のN部先生の「常陸は地方支配のモデル地域であり、他の地域でそれほど立評が進んだとはいえない」との意見は説得力があった。
三人目のY口さんの報告の論評は諸事情で差し控えたい。ただ発表内容の性格(仏教と陰陽道)もあり、他の出席者には、I田先生(誰か分からなかった人も多かったではないかと危惧。)の意見の趣旨は分かりにくかったのではないか。
四人目は平安後期の日宋貿易の年期制(一種の貿易管理制)についての発表。これも議論の余地はないものであった。ただこの時期になっても、対外交渉だけは陣定でしっかり対応を決めていたのだということは留意しておきたい。
対外関係史の大家、田中健夫先生の姿も見える。80歳を超えて壮健なことです。
(2009年10月12日に他界されました。人の命ははかないものだと痛感する。ご冥福をお祈りいたします)
中世の発表については割愛。途中で外に出てしまったし。今回は特に本は買わなかった。歴研大会ではちょっと買いすぎてしまったし。

午後は以下のようなシンポジウムです。

シンポジウム「前近代の日本列島と朝鮮半島」  
午後1時~午後5時
趣旨説明、司会   
佐藤 信(東京大学)・藤田 覚(東京大学)
報告1 九世紀における日本と新羅の対外交通
・・・・・ 山崎 雅稔(國學院大學)
  2 長江以南の新羅人交易者と日本
・・・・・ 田中 史生(関東学院大学)
  3 一四世紀後期における日麗・日朝通交の変容と対元・対明関係
    ・・・・・ 岡本 真(東京大学)
  4 「朝鮮押えの役」はあったか
・・・・・ 鶴田 啓(東京大学)
休憩
コメント 石井 正敏(中央大学)、村井 章介(東京大学)、吉田 光男(東京大学)

現在ではシンポジウムの内容は増補の上、山川出版社の史学会シンポジウム叢書で書籍化されている。
前二本の報告は、聞いたことのあるような話題も多いが、材料はよく整理されていて、この分野に疎い人にもわかりやすい報告でした。やはり古代の朝鮮半島の人々が中国沿岸部で活動していた状況というのは、日本人が及ぶところではないということは確かです。さすがに現代の後裔が主張するように「百済はローマ帝国に匹敵する大海洋通商国家である」というのは言い過ぎでしょうが、円仁の唐での活動にしても在唐新羅人のネットワークがなければ、唐の官僚制の壁の前に身動きできず、大人しく天台山や長安に行かずに日本に帰らざるをえなかったのは厳然たる事実です。
岡本さんの文書形式の話は、中国王朝に対する公文書と私文書の区別で日本と高麗の外交交渉を説明しようとするもので、あまりに図式的に過ぎるかと思われるほど明快な議論ですが、古代史の人間には分かりやすい説でした。
最後の鶴田さんの報告は対馬藩の性格付けの問題ですが、二国の間でアクロバテックに動かざるをえない地理的・政治的立場を反映したものです。
報告の技術に関しても、かなり参考にさせられる点が大でした。はっきり申しますと戦国期以降の文書というのは、崩し字の読解が難しいだけでは話がすまず、活字本ですら容易には理解しがたいものです。というのは、かなり公的なものであっても、文書の発信者・受信者の立場を十分に理解した上でないと理解しがたい相対的な表現が多く、厳密な理解・現代語訳がきわめて難しいもの(したがって正反対の意味に解釈してしまうことは専門家でも珍しくない)ですが、うまく要点に二種類の傍線をふって多くの文書を類型化していました。
この点、古代の格などは難解な漢語、律令用語を一つ一つ解釈していけば、誤解は滅多には起こりません。誤解するのは、ただ史料の読みが未熟なだけである。読みの問題が論争になることは少ない。

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家永三郎の古代史研究と研究書出版事情 [歴史学]

「飛鳥朝に於ける摂政政治の本質」

1938年の家永三郎の論文である。
聖徳太子の地位について論じたもの。井上光貞や竹内理三、荒木敏夫あたりの皇太子制、太政大臣制などの論文でも先行研究として引用されているのは知っていたが、実は最近まで読んだことはなかった。
理由があって実見する必要があり、てっきり著作集にでも入っているだろうと思って、図書館で調べてみたが、岩波書店の『家永三郎集』全16巻にも収録されていない。著作集の末尾の著作目録で調べてみると
『日本歴史の諸相』富山房・1950
に収録されているとのことだった。さっそく手にとってみようとすると、中央図書館B1の普通の本は、他の場所に紛れたのか、見つからない。代わりに手にとったのは、なんと津田左右吉の旧蔵書であった。
なんとも変った体裁の本で、A6版(文庫版)上製ながら、一般書ではなく、専門的な論文集というもの。
古代史の文献一覧、論文注などを見てみると、初出の雑誌に当たっている人が多いようである。

読んでみると、けっこう面白い。津田左右吉や坂本太郎あたりの古い論文を今読むと、かかれている内容がどんなに優れていても、研究史上の位置づけしかできないことが多い。
が、本論文は必要な史料は網羅されているし、戦前のこの論文と比べると、戦後の井上光貞の研究さえも屋上に屋を架した印象を免れないものである。
ただし難を言えば、天智朝の太政大臣を、皇太弟の大海人皇子と天智天皇との政治的衝突の副産物としてみるといった論証が、今としてみれば弱い。政治史の厳密性のなさの典型のようである。
さりげなく『懐風藻』の成立問題に「五宗」という用語からコメントしているのは知らなかった。ちゃんと中国史料、朝鮮史料にも十分に配慮されている。
こんな論文が入手困難な状況に置かれているのは、おかしいと思う。

はっきりいって、家永三郎は古代史学者としては忘れられている。師匠が誰かというと微妙な所だが、坂本太郎が東大の日本史の専任(終戦までは助教授だけど)になる直前であり、辻善之祐と平泉澄であろう。自伝によると黒板勝美とは、それほど直接の接触がなかったようである。
(ちなみに坂本太郎は黒板勝美直系で、直接の後任人事である)
ある時期から、家永は近現代史と教科書問題に注力したため、古代史業界では過去の人と思われるか、思想史・仏教史の業績に限定して語られる。1950年代までの業績で見れば、第一級の業績を持っている。注記の仕方とかを現代風にしていれば、今でも査読誌の巻頭に載っていても不思議はない感じである。家永にしてみれば、余技の論文であろうが。

家永三郎に関しては、その著作量は学者としてはトップクラスであるが、殆どの著作が著作集に入っていない状況である。今ご存命の人だと田中卓が仕事量の多さと研究テーマの多彩さでそれに近い状況だが、思想的な立場は反対ながら、著作は入手しやすい状況である。森田悌の初期著作が入手困難な点では、家永に近い。
教科書裁判などでポピュラリティーはあるのだから、細大漏らさぬ40巻くらいの全集を作っても、訴訟関係者や公立図書館などにも部数ははけて、岩波としては商売が合ったのではなかろうか?
(どうやら長生きしたご当人が完全主義で、過去の著作をご自分で精選しすぎたせいもあるらしい)
ジャーナリストの本多勝一なんて、ファンが多いのをいいことに、小学生時代の作文や下手な漫画や、朝日新聞の駆け出し記者時代のベタ記事まで載せた著作集を出したのに。
少なくとも、単純に論文が読みたいだけの事情で、津田左右吉の旧蔵書を見る必要が生じるのは望ましくはない。この本は全国の大学でも10冊しか収蔵されていない。
(東京大学では東文研に収蔵されていたと思ったら、なんと仁井田陞文庫だった)
著作集の編集に際して岩波書店は「古書で簡単に手に入る単行本のたぐいは除いた。」と言っているが、このような収蔵状況では、稀覯書の類に属するものだろう。ちゃんと著作集に収録されるべきであったろう

日本古代史の各分野 [歴史学]

一口に日本古代史というが、けっこう取り扱う内容は広い。むしろ広すぎる。早くは邪馬台国の時代から、だいたい院政期、早くても摂関期までに日本列島と北東アジアで起こった森羅万象の事項を文献、考古の資料があるだけ扱うわけだから、よく考えればその通りだ。

当然、個人的にはあまり興味のない分野というのもあちこちに出てくる。それも結構ゼミの先輩や同期と興味関心がずれているように思えることが多くて、自分の頭はおかしいのだろうかと思うことがある。例えば、人事任官とか単調な儀式とかほど面白いと思うが、財政史特に税品目の話は正直に言うと、未だに殆どの場合は興味を持てない。古代の制度史の根幹は財政史らしいが、教科書・概説的な情報に比べて、どれだけ新しい研究の意義があるのか分からないことも多い。
史料があれば面白いのだろうが、ない現状でその分野について行われている先行研究の方法論そのものが退屈ということも多い。あるいは痩せた土地が開発されつくして(研究がやりつくされて)不毛の荒野を歩いているように思えることも多い。誰も文章で引いたことがない史料なんて日本書紀や続日本紀では、まずないだろう。日本三代実録あたりなら可能性がないわけではないが。
だけど、何か研究を塗り替えるきっかけを求めると、最初は退屈に思えることの中に地下水脈や鉱脈の露頭を求めるしかない。そもそも後世に関する研究者と違って、古代史では誰も読んだことがない史料などは新出の出土文字史料くらいしかない。中国史料にしても、正史や六典、通典あたりは先人が相当読み込んでいるはずだ。
出土文字史料も新しいものが出れば、木簡学会の研究集会などを頂点としてあっという間に新出史料を多くの人がいじくり回してしまうものだ。

自分自身の研究だと、興味のないことはやらなくてもいいだけだが、ゼミの年間テーマというのが難しい。○○地域の屯倉とか鉄なんて、どうやったら新しい視角で物を書けるのだろうか?今年度は一時だんだん不毛の荒野を歩いているような気がしてくることがあった。
むしろ古代地方寺院、交通路や氏族分布などの世界の方が可能性があるように思える。しょせん研究は我田引水だから、興味のある分野に引き付けて報告をやるしかないのだろうか?
思えば一昨年のゼミでは大安寺の資財帳をやったが、寺領の分布とか物品とか、もう少し自分で意味を見付けて主体的に取り組むべきだったかと反省。

正直を言うと正史や律令格式そのものの方が、素材として実はやりやすい。退屈な人名や行事の羅列の方がかえって水脈を探しやすいのかもしれない。

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