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縄文時代の教え方 [教育]

15日に発表された新学習指導要領案で小学社会に縄文時代が復活した。きっかけは平成17年、東京都内で開かれた日本考古学協会(会員約4000人)の総会に、1人の小学校教諭が議案を提出したことだった。 「みなさんご存じでしょうか。いま、小学生が学ぶ歴史は弥生時代から始まります。旧石器・縄文を教科書に戻すように、協会として働きかけてもらえませんか」 そんな指摘をしたのは釼持輝久さん(59)。当時、神奈川県横須賀市立長井小の1年生の担任だった。11年の改訂時から胸を痛めていた。 日本考古学協会は、すぐに各教科書を調査。弥生以前の記述がなくなっていることを確認し、教科書問題小委員会を設置した。釼持さんは総会でも「教科書に載っていないと教えられません」などと発言。300人あまりの参加者は、その指摘に驚いたという。 「(発掘する)地面ばかりを見ていて気付かなかった。衝撃をもって受け止められましたね。石器、土器の時代を素通りして稲作から教えるのは不自然。そういう声は瞬く間に広がりました」(黒尾和久委員)。その後、18年に協会は声明を発表。19年、中教審は文科相に復活を答申した。 新要領案では、弥生を指す「農耕の広まり」の前に「狩猟・採集を行っていた人々の暮らし」が加わった。新要領案に沿った教科書は、編集、検定、採択を経て23年に登場する予定だが、小学校では21年から現行の教科書を使い、指導が前倒し実施される。 釼持さんは「私自身も小学生のころ、ナウマンゾウや貝塚に胸をときめかせました。旧石器・縄文時代は、人間と自然の関係や社会生活の基盤を学ぶのにふさわしい時代だと思います。子供たちには、日本列島に人が暮らし始めたころから、今日へ至る歴史に思いをはせてほしい」と話している。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080219/acd0802190841006-n2.htm

どこでも、歴史系の博物館で担当者に話を聞いてみると、体験型の展示などを作りやすく、小学生に人気があるのは縄文時代らしい。それが小学校教育でどのような時代か、位置づけられていないというのは問題だろう。学校教育と結びつかないのなら。
この小学校の先生もGJだな。管理職にならずに低学年の担任をしながら、考古学の学会にも出続けていた(この発言のためだけに入会して発言したとは思えない)のは、なかなか評価すべきものである。

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30代校長はうまくいかない [教育]

30代教員に校長のチャンス 大阪府教委、若返りへ改革 大阪府教育委員会は、教頭を務めたことがない30代の教員も、府内の公立小中学校や府立高校の校長の選考試験を受けられるよう人事制度を改め、今夏にも募集を始める。団塊世代の大量退職が本格化するなか、校長の若返りを進める狙いだが、学校現場からは「応募する若手教員がいないのでは」との声も漏れる。 文部科学省によると、08年4月1日現在で全国の公立小中高校の最年少校長は42歳。担当者は「30代の校長を登用するための人事制度は非常に珍しい」と話す。 府教委のこれまでの受験資格は、府立高校では「57歳以下で3年以上の経験がある教頭」、公立小中学校では「40歳以上57歳以下の教頭か指導主事以上の職にある人」。試験に通った場合でも、基本的に年功序列で校長に任命されるため、現職校長の平均年齢は57歳と高い。 新しい人事制度では、10年以上の教職経験があれば、校長や市町村教委の推薦を得た上で選考試験を受けられるようになり、30代でも受験が可能になる。ただし、管理職経験がない教員には校長就任前に、教頭や指導主事を1年間経験してもらう。 府の公立学校の教員(大阪、堺の指定市を除く)は、50歳以上が全体の半数近くを占める。「年功序列にとらわれず、やる気と力がある人を校長に登用したい」という39歳の橋下徹知事の意向もあり、府教委は改革に着手した。 30代の男性教員は「実際に手を挙げる人はいないんとちゃいますか。一番体が動く時期に子どもと触れ合う経験を積みたい」。府立高校長(56)は「校長の責任は大きいが、人事権もないし予算もほとんどない。その両方を持つ橋下知事とは違う。若手だとよっぽどの人じゃない限り、つぶれてしまう」と話す。 京都府は教頭や副校長から校長を登用。東京都は副校長や統括指導主事などの管理職経験が3年以上ある教員から校長を選んでいる。(藤田さつき)

調べてみると、民間人登用などの例を除いても、公立校で40代という例はそこそこあるようだ。だが30代となると話は別だ。制度的に制限されてはいない自治体も多いようではあるが、実例はない。
小規模校ならいざしらず。正直いって、年長者が多い中で、うまく学校運営というよりをやっていくのは難しいと思う。
こういうと、教員社会の閉鎖性とかを叩く声が出てくるが、どこの会社でも実は構造は同じである。だいたい公立校では校長は自治体の課長級扱いとなっている。では民間企業の課長かというと、そうではない。小規模校でなければ、一つの学校には教職員は20人を超える。高校などではもっと多い。校長はそのトップである。だいたい民間企業でも純粋な部下がそれくらいいれば、少なくとも部長級(○○部長という肩書きではなくても)であろう。
だいたい新興ブラック企業でもなければ、同質の総合職の人が揃っていて、部長とか支店長(30人くらい従業員がいる)が30代というのは、やや厳しいものがあろう。もちろん正社員とパートアルバイトなどが分かれるサービス業や、管理者と一般従業員がけっこう分かれる工場現場などは別である。しかも20代がたくさんいる職場ではなく、過半数が年長者という職場では若い管理職は希であろう。
若い管理職が実現する条件は、第一に組織が若いことであろう。年長者に遠慮する必要がないということである。
第二に商社銀行など、平の年長者がどんどん退職出向していって、本社の年長者は出世した人だけというパターンである。昔の中央省庁などもそれに近いパターンであった。40代で局長、事務次官でも40代後半ということが普通であった。
第三に挙げられるのは、一般の人と管理職が採用から別コースになっているというケースである。国1とか昔の国鉄というケースである。あるいは高卒の現業職採用が多い都道府県庁なども同じである。その最高の例が警察組織である。実は若い校長が多いというアメリカでもそうである。若いときから管理職と一般の教師が別扱いで人事が行われているからである。

どうも公立学校でそれをやろうというのは無茶であるように思える。ただでさえ団塊世代の大量採用(これは民間企業でも同じ)と少子化で、教員の年齢構成はいびつであるのに。
実は戦前には若い教頭校長というのは珍しい存在ではなかった。帝大卒でも文学部などは明治から学校の先生になるのが一般的なコースであったが、そうして教員になった人は同僚を追い越して直ぐに昇進していったのである。夏目漱石などは松山中学校に外国人の英語教師の後任として赴任したため、その給与は校長より高い80円の高等官(奏任官)だった。昭和になっても帝大卒ならば30代で教頭校長になるのは当たり前だった。一般の教員の地位が低かったわけでもない。小学校でも給与こそ安かったが、正規の教諭は戦前でも判任官に準ずる待遇を受けていた。戦前の役所だと、ほとんど雇員傭人であって、判任官でもそれほど多いわけではない。
(そもそも旧姓高校、いわんや大学教授の社会的地位、位階勲等などは今の想像以上に高かった。帝大教授は高等官1等か2等の勅任官である。1等というのは大臣の一歩手前の次官級であり、2等は本省の局長や枢要な課長、県知事である。)
日本の経済産業が戦後、成長した原因として、均質な企業社会を挙げない説はない。幹部と一般社員を差別しない社会システムと、それを支えた教育システムに注目すべきだろう。欧米のように個室かブースを持ったエリートと一般の事務職、秘書という区分がないのが日本の美点であった。この点は『釣りバカ日誌』の漫画版で、外資との交渉で揶揄的に何度もしつこく出てくる。
教育界もそうである。旧姓中学相当の師範学校から、大卒に二段階格上げされた教員は相互に平等を旨とする。これは検事判事が平等で相互の職務を犯さないのと同じである。
そういう状態を壊すことのメリットがあまり具体的に見えづらいのに対して、デメリットは多いように思われる。
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大学図書館の活用法 [教育]

図書館の有効活用法については、いくつかハウツー本が出ているが、以下の本を立ち読みしたら、意外と有益なことが出ている。ネット上の情報でカバーできないものがいかに多く存在しているかとの指摘、そういったものの調べ方の実例などは、参考になる。

図書館を使い倒す!―ネットではできない資料探しの「技」と「コツ」―
http://www.shinchosha.co.jp/book/610140/

だが最後に付随的にふれられている大学図書館の使い方だが、業界図書館に関する微細な叙述に比べると、一般開放している図書館がどこなのかなど、入り口の問題を述べるのに留まっている。おそらく著者自身、それほどは使いこなしてはいないのだろう。もう少し有名大学の部局図書館の個別論なども述べてほしいものである。

じっさいのところ、大都市の場合は大学OBでないと、大学図書館の利用のハードルが高いところも多い(なお著者の出身大学は広島大学)
けっきょく有名大学を卒業することの便益は、ネームバリュー、大学生活の充実度(の可能性)に次いで、都道府県立の図書館なんて足元にも及ばない充実した図書館を卒業後も大手を振って利用できるということにあると思う。最近は大学発行のクレジットカードに入ると、学生のみならず保護者、家族全員が大学図書館を利用できるケースなどもあり、家族の誰かが入学するだけでもメリットが多い。
さて、ある院生の先輩から、「大学院の学費の9割は、大学図書館の利用料だ。」という説を聞いたことがあるが、そのとおりだろう。文系の大学生の学費なんて、卒業後の図書館の終身利用権の先払いだと思わないと、高騰した今では納得していけないだろう
(多くの国立大学では文系学部は黒字で、余りを理系学部に補助している構図となっている。とはいえ、さすがに大陸ヨーロッパ並の大学学費の激安ぶりでは、高等遊民を生み出す弊害よりも、設備の劣悪さをもたらしている弊害の方が多かろう。この点、民青の国立大学学費が高騰したことへの批判の論拠は間違っている)。
卒業後に大学図書館を利用することを考えると、郊外の不便な立地のキャンパスの大学を卒業するのは不利である。よく学生がアルバイトや企業のインターンシップに行きにくいなんていう非難は、郊外キャンパスの大学に対して向けられる。が、それはJリーガーなどが述べる「早生まれは人生で損」というのと同レベル(年金計算の有利さとか、飛行機のスカイメイトを使える期間の長さなど、早生まれにもメリットは多い。身体能力では差はあるのかもしれないが、日常生活では関係ない。学力に至っては有意な差はない)の近視眼的主張である。巷間で批判されるレジャーランド大学(表現が古くて申し訳ない)にも、人生のモラトリアムとしてそれなりの意味はある(実は大卒と高卒の根本的な差異は学力ではない)し、土田舎のキャンパスではレジャーランドにもなりようはないだろう。
地方大学を卒業して都会で働いている人も不利である
(だいたい、地方の大学を卒業して、地元で就職しないという人生の選択肢は間違っていると思う。当該地域の大学のネームバリューは地元でこそ最大になるのである。就職してから大学時代に出来なかった都会生活を実現したいという願望の反映としか思えない)。

大学図書館の蔵書にも盲点はあり、大衆文学や随筆、サブカルチャー系の本、雑誌などは弱いが、それ以外の分野では都立中央図書館や国立国会図書館クラスでないと太刀打ちできないことが多い。大学図書館には、官庁系の雑誌、統計、報告書、社史なども驚くほど揃っているものである。学術関係の洋雑誌などは公立図書館に対して圧勝である。外国新聞も、たいていは1週間以内に読めるようになっている。
意外と公立図書館は週刊誌などを永久保存していない所が多い。市町村立の図書館では、週刊誌は全て最初から保存を放棄する明確な統一方針が採られているのが一般的である。なぜ「週刊誌を保存しないのか?」と司書に尋ねると、異口同音に「書架のスペースには限界があるので、嵩張る週刊誌などは保存しない」という回答がどこの図書館でも返される。
これに対して、たとえば灯台の情報学環(旧 新聞研究所、社会情報研究所)は週刊文春、週刊現代などを創刊からほとんど所蔵しているし、朝日ジャーナル(大学図書館では月刊誌並に扱われている)は早稲田の中央図書館や駒場図書館などでも所蔵している。
国立国会図書館の混雑はひどいものだが、その原因の殆どは他の図書館にもある本を「急がば回れ」と請求に来る利用者にある。つてのある大学図書館や、充実した公立図書館を有益に利用するのが賢明だし、そういう行動を多くの利用者が取ることによって、国会図書館の混雑を緩和し、本当に国会図書館にしか所蔵がない本をやむをえず請求に来る人の利益にもなるものである。

教員免許論 [教育]

ひとこと
「文系学部卒業で持っていないのは、どこかおかしい。人生を軽く見ているか、怠惰そのものだ」

(
理系の人には断っておく。高等師範に起源を持つ一部の大学の理学部や数学科、理論物理学(浮世離れした世界ということ)などを除くと、制度上は教員免許の取得が可能であったとしても、専門学科のカリキュラムの中で、教職を取ることは実質的に顧慮されておらず、実験などの都合で教職科目の履修は現実問題として困難であるケースが多い。その場合は別である。以下の文章は人ごととして読み飛ばしてほしい。)

もちろん、資格を取ったからといって、実際に中学高校の教師になるかどうかは別の問題である。
大学を卒業して免許状を取っても、殆どの人間は普通に就職、進学する。
だが取ったことを後悔している人間はまずいない。ペーパードライバーでも、運転免許を取るために教習所へ通ったことを後悔する人間がいないのと同様である。逆はあっても、である。
運転免許に比べたら、それは少数ではあろうが、大学在学中に取らなかったことを後悔し(ないしは在学中ながら、必要科目を取り始めるタイミングを逸して)、通信制で取り直したり、時に大学一年生からやり直す人も多い。(中学高校の場合は3年生から取り始めることも多くの大学で不可能ではないが、就職活動なども考えると難しい面もあろう。)
そういった場合の追加コストは莫大である。人生の中の時間価値をも考え合わせれば、さらに経済的損失は拡大するだろう。
だいたい大学1年の時から計画して履修すれば、教職に必要な科目を履修したからといって、著しく大学の授業の負担が増えることは少ない。文系ならば、大抵の大学の学部学科では卒業のための必修科目とは別でも、卒業単位に算入されるのが殆どである。
英文科以外の人間が英語科の教員免許を取ったり、2つの教科の免許を取得したりするケースは別だが、それは知的好奇心豊富な学生が貪欲に専門以外の分野の講義を履修したりするケースと同様であって、当人の人生の中で有用な知識経験を得ることができよう。日本の大学では副専攻という概念は一部の先進的な大学・学部を除いては一般化していないが、世界(欧米どころか、韓国中国でも)の一流大学のインテリの間では複数の分野に通じていたり、複数の学位を持っていることは普通であり、高く評価されはしても、日本のように否定的な意味で捉えられることはない。

時に進学校などではカリキュラム編成の実利的な問題として、実習生が授業をする期間を嫌がる向きはないわけではないが、卒業生が母校で授業をすること自体を損害と思う中学・高校の関係者は皆無である。あまり底辺大学の場合は別だろうが、上位の大学であればあるほど、教職課程の担当者は卒業生に教員免許の取得者が増えることを歓迎している。私が知る限り、大学関係者は全て、卒業生が教員にならなくても、社会に教員免許の保有者が増える(この表現は免許更新制の導入で微妙になったが)ことは歓迎すべきこととして捉えている。
この手の意見を世間一般、ネット上で見ることは希なので、やや詳しい説明が必要であろう。
だいたい、実際の大学の授業で所期の目的が達せられているかは別として、教員免許に必要な履修科目は極めて高い理想の元にバランス良く配置されており、教育基本法の理想を実際的に体現している。近年になって強調されるようになったリベラルアーツの概念は、日本の大学教育の中で拙速な専門教育の優先傾向に遮られて、明確に「教養学部」などを名乗る一部の大学学部などを除いては、十分に日本で普及することはなかったが、教職の必要科目の中では昔から立派に実現していたと言って良い。それだけ戦後の教員の制度が先の戦争と近代天皇制の体系の反省の下に構築されたかを表している。
教育学が(ことに学問の方法論の点で)独立した学問として、日本国内の常識ほど世界的に確立した学問であるかどうかは疑問だが(特に哲学の出来損ないの教育原論や、社会科学の劣化版の教育社会学など)、より積極的に捉えれば、教育学そのものを学ぶ教職科目は学問の総合として捉えることが可能だし、近年に加えられた介護実習や総合演習は評価すべきであろう。

実際には教科の専門科目は多くの大学の学部において、一般教養科目にも水準にも劣る、程度の低い「教職用科目」として行われていることは残念である。この点で、社会科において程度の劣る一切の教職用の科目を学生の便宜のために設けない東大の方針などは高く評価して良いと思う。そこにおいては、社会科学関係の科目の多くは文学部生も、法律学政治学などは法学部生の3割が落第する専門講義を履修しなくてはならないし、経済学も経済学部生に混じって履修しなければならない。

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