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国鉄の客車 1950~60 [交通]

鉄道ピクトリアルの増刊である。
(鉄道図書刊行会は高齢者向けなのか公式サイトがない)

再録記事も面白いが、冒頭の寺本光照の新原稿が読ませる。
ちゃんと1969年時点での航空路との比較(P14)もやっている。ここでまとめられた当時の国内航空界の状況を一言で言うと、幹線(東京・伊丹・福岡・千歳)と一部の遠距離の高需要ローカル(鹿児島の旧空港と宮崎)ではジェット化も完了し、便数も運行時間も現在並か、伊丹の運用時間などそれ以上に便利な状況である。しかしながらローカル線ではYS11が最新鋭の大型旅客機であって、経由便も多く使い物にならないものだった。
「20系の黄金時代は飛行機も特権階級のもので、鉄道と比較にならない」と安易に考えがちな近視眼的な鉄道マニアではありえない比較である。だが結構細かい所では杜撰な論旨も目立つ。

・1969年の東京~札幌では航空便は25往復で、青函連絡船との乗り継ぎが確保された優等列車の乗り継ぎパターンは9往復であって18時間を要した。
しかし青函連絡船がらみの列車の切符は人気があってなかなか取れなかった。混雑したのは航空運賃と鉄道運賃に倍程度の差があったから。
「現在でもそうであるが、2つの地点間に複数の交通手段が存在する場合、利用者はよほどの急ぎなど特別の事情がない限りは値段が安い方を選択するのがふつうである」
→周遊券がらみの客(カニ族)や札幌以外に向かう客、飛行機嫌いの客で混んでいたのかも。
→そもそも出張客などの時間価値を評価せずに、値段だけで評価するのはおかしい。その論理なら今でも、東海道新幹線と同じくらい高速バスで東京~大阪・名古屋を移動する客がいるはずである。
 →普通の人は世間で普通と思われている交通手段で移動するものであって、個人の交通手段の選択はそのつど膨大で正確な情報から合理的に判断されるわけではない
→一般的に札幌オリンピックを以て関東と北海道の移動では鉄道と飛行機のシェアが逆転したとする説が一般的だが、東京と札幌の二点間移動では更に前に逆転していた可能性が大きい。当時の幹線の航空便はANAが727-200か100、JALがコンベア880かDC8-61を使用していたと思われ、定員は多ければ170~230人程度で、輸送力は寝台列車などの組み合わせとそれほど差があったわけではない。

実は前半の20系客車自体に関わる話はさんざん鉄道ファンなどのブルートレイン特集などでも読み尽くした話で、新味はない。まあ当時の国鉄の内部の人のリアルタイムの生の言葉を読むという意味はある。優等客車、食堂車の話が面白い。初期の冷房の話など
・初期の進駐軍向けの後付け冷房車はフロン漏れがひどかった。最良の状態を保つには苦心した。
・川崎重工の量産型(床下装着の)冷房機はアメリカの設計を許可なく真似し、泥棒まがいに図面を写したものだった。

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