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ニュータウン開発と鉄道 その1 [鉄道]

(以下は2004年に某会誌に書いた旧稿の再録)

0、はじめに

 多摩田園都市と多摩ニュータウン、いずれも東京の西南の郊外に造られた10万人規模のニュータウンであり、ニュータウンの建設と前後して東急田園都市線、小田急多摩線と京王相模原線という都心への通勤路線が建設されたという共通の歴史を持っている。しかしながら、過去の建設計画の主体、および現在の都市構造は大きく異なっている。
多摩田園都市は民間企業の東京急行電鉄が主導して、土地区画整理方式で開発したものであるのに対して、多摩ニュータウンは政府の首都圏の住宅政策の一環として計画が行われたものである。また前者では都心への通勤客の動きこそ莫大であるものの、地域内に百貨店以下沿線の商業施設なども充実しているのに対し、後者では新宿へのストロー現象が著しく、多摩ニュータウン中央でさえ商業地域として完結しているとはいいがたいものがある。これらの相違点について考えてみたい。沿線文化論でもなく、ターミナル論でもなく、通史でもない奇妙な文章だが、読者の寛恕を請いたい。

1、沿線開発の軌跡

(a)多摩田園都市の場合

 そもそも東京急行電鉄(以下、東急と略称)の起源 (注1)は、路線としては1923年に全通した現在の目黒線・多摩川線にあたる目黒―田園調布―蒲田にある。その建設主体は、田園都市株式会社の建設した住宅地へのアクセス鉄道としての目黒蒲田電気鉄道であった(2)。(以下の歴史 については、以前の拙稿「東急グループの歴史」にも詳述したので、簡潔に記すことにする。)
田園都市株式会社は、20世紀初頭のイギリスの田園都市の思想に影響を受け、公害と過密に苦しむ既存市街地を離れて、郊外の農村の中に住宅地を開発しようとしたものであり、日本の資本主義の租ともいえる渋沢栄一が、その生涯の終盤に着手した社会事業である。本来土地販売の対象とされたのは中流のサラリーマンであったが、開発地の中心の田園調布が、有名芸能人、オーナー経営者でないと住めない(以前からの住民も相続税の関係で家を維持できない。)高級住宅地(3) となったのは戦後の首都圏の住宅事情の悪化が必然的にもたらしたこととはいえ、皮肉なことであった。
モータリゼーションが発達していない当時の日本では、職住分離(4) の住宅地にはアクセスとなる鉄道(5) が必要であったが、鉄道事業に詳しい経営者を求める必要があった。当初、阪急の経営を成功させていた小林一三に話がいったが自身は多忙であり(6) 、小林の推薦で鉄道院の官僚出身の五島慶太が、その任に選ばれた。
目蒲線の建設が完了すると、従来から計画と免許のみがあったが建設費の問題で実際の建設には取り掛かっていなかった渋谷―横浜の武蔵電気鉄道(7) の免許線の建設に取り掛かることになり、1927年に全線が開通した。

『東京急行電鉄五十年史』によれば、上野毛(8) に広壮な自宅を構えた五島慶太は周囲を散歩することが多く、多摩川対岸の広大な台地の開発の可能性について、戦前から注目していたとしている。
戦後の公職追放からの復帰後の五島慶太の、航空から映画、製粉事業など広範にわたる事業展開については、日本橋の百貨店白木屋の買収問題など有名であるが、地域開発がその根幹にあったことは否めない。多摩丘陵の開発がその際たるものであった。
大井町線の延長計画の検討が始まったのは1953年からであり、沿線の土地買収も進められた。社員名などでバラバラに買収しておいた土地を積み重ねて、開発計画予定地の全体の中で東急側の保有地ある程度以上の比率に達した上で、沿線の地主に諮って土地区画整理組合を組織するという方法である。区画整理の結果、バラバラの東急の保有地は統合され、開発により都市基盤が整備され、地価は上がる。その開発利益を鉄道建設の費用にあてるという手法である。
土地区画整理法の間隙を縫う手法であり、私企業が実際の区画整理計画、実行の主体となることについては、当時から法律解釈の問題もあったようである。しかし、何らかの統一的な開発が行われずに放置されたところで、高度成長の中での東京への人口集中の動きの下では、当該地のスプロール化が進んだことは想像に難くない。
開発のマスタープラン(9) は1956年に発表された。開発のモデルとして比較的平坦で地権者の数が少なく意見統合が容易な、川崎市の野川第一土地区画整理組合が1959年に発足し、1961年の恩田第一土地区画整理組合などに続いた。
1966年には建築家の菊池清訓と共同で多摩田園都市開発計画が発表された。これは1965~70年の第一期を準備期として、区画造成と駅前の複合施設の建設を、1971~75年の第二期には地域の核となる住区センター(クロスポイント)と低層集合住宅のビレッジを、75年からを第三期、81~85年を第四期の調整期とする計画であった。
平行して鉄道の建設も進んだ。当初から路線は、大井町線の終点 (10)の溝ノ口と小田急江ノ島線の中央林間を結ぶものとして計画され、1960年に全線の免許を取得した。1963年には、国鉄横浜線の長津田までの第一期工事の工事認可を取得し、1966年4月に一気に長津田まで開通した。それより先の延伸は序序に行われ、1984年に中央林間まで全通した。
新線とはいえ、通勤路線としてさほどの高速運転を行う必要は想定されておらず、台地を縫う路線の性格のためもあり、最小半径は300mと線路規格は大して高いとはいえない。戦前に高速鉄道として作られた東横線や小田急の方がよほど線形はいい。NT線として作られた小田急多摩線や京王相模原線とは、比較にならないといってもいい。
流石に路面電車の玉川線は、多摩田園都市からの通勤輸送の主役たりえず、1960年代のアンチ路面電車の動きの中で1969年に廃止された。従って当初の田園都市線の電車は全て大井町線に直通 し(11)、自由が丘で東横線に乗り換えて都心に向かうルートが取られた。当然ながら東横線の混雑は激化し、急行の中型 8両化(12)、20m車の8000系(13) の導入が進んだ。
当初、新玉川線(現在は田園都市線に統合された)は銀座線を延長する形で東京オリンピックまでに建設する予定であったが、実現できないままになった。更に輸送量の拡大に伴い、もっと大型の線路規格の路線でないと通勤客を輸送しきれないことが予想され、新たに地下鉄線(半蔵門線)を建設し、規格を変更した新玉川線と都心と相互乗り入れすることとなった。当然20m車10連対応である。1977年に渋谷―二子多摩川が全線開通した。ほどなく昼間に田園都市線内で通過運転する直通快速も30分間隔で運転を開始した。当初は8500系6連だったが、激しいラッシュにより、1983年には早くも10連が登場した。
東急田園都市線の沿線を語る上で忘れてはならないのは、去年3月の東武、半蔵門線との3社直通運転が始まるまで昼間の優等列車(1996年からは新玉川線区間も通過運転する急行)が30分間隔であったことである。今では15分間隔となったがそれでも、京王の20分に4本の優等列車を運行するダイヤと比べると、中距離利用者にとって不便なのは確かである。
このような昼間の都心アクセスの不便さもあり、沿線の商業施設が発達した。鶏が先か卵が先か難しい話だが、まだ新玉川線が開通する以前から二子多摩川には高島屋が開店しており、東急ハンズも渋谷に先駆けて開店した。渋谷が若者の町の印象が強まりすぎたためもあり、他の路線と比べて、沿線で買い物し、自足する傾向が強いことは否めない。
一般に東急沿線は近年の「東急クオリティー」に象徴されるように、沿線の高級な生活のイメージを定着させることに成功してきた。この点は関西における阪急の企業イメージの成功と対比して考えることができる。
しかし肝心の点は阪急とは異なる。木目調のインテリア、軌道と台車の良さからくる絶妙な乗り心地など、通勤電車としてはあらゆる面で非を言いがたい阪急に比べると、東急の車両とダイヤ、設備は、意外に通勤ラッシュ時の大量輸送のみに力点をおいた無機質なものである。ダイヤのほかにも、車両は5200系から一貫して無塗装のステンレス車体であり、9000系が登場するまでは「混雑したラッシュ時には冷房の送風手段として、ラインデリア(14)よりも扇風機の方が涼しい」(確かに真理だが。)との理念に基づき、国鉄ですらラインフローの天井の電車を作っていた1980年代前半に、天井に分散型クーラーと扇風機が並ぶ内装を続けた。
駅について考えてみると、後述するように、まだ東横線の渋谷駅には曲線の美しさがあるが、田園都市線の渋谷駅はあれだけの輸送量を誇る路線のターミナルなのに、直ぐに人で溢れてしまうほどの手狭さである。

 多摩ニュータウン(15)は、戦後の東京の住宅難を打開するため、政府(具体的には東京都首都整備局)と住宅都市整備公団が計画したものである。その計画は都心から15キロの範囲にグリーンベルトを作った上で、その外側に数十箇所の5~10万人規模のニュータウンを作ろうとした昭和30年代の首都圏整備計画に基づいていた。
当初 から鉄道アクセスには北側の京王多摩川線の延伸(16)、小田急の支線建設が計画された。京王は従来から相模原方面への路線延長を計画しており、小田急も鶴川からの分岐を計画していた。1964年5月には南多摩地区輸送計画調査委員会が報告書(いわゆる八十島 レポート)(17)を出し、ルート九案が検討された。アクセス鉄道は前提としてラッシュ時一時間31000~57000人の通勤客を見込み、途中乗降を含めた一時間あたりの通過人員は84000人と想定された。
当然ながら複々線が計画された。京王ルートは東京10号線として現在の都営新宿線と一体で新宿―調布―多摩センター―橋本 (18)、小田急ルートは都営9号線として営団千代田線として整備されることとなった。
 多摩ニュータウンの場合は、多摩田園都市の場合と異なり、新住事業となった。すなわち、対象となる地域の土地は強制的に全て買収され、日本住宅公団と東京都、都住宅整備公団のみが土地開発を行いうるものとされた。しかし、現実には開発完了後に元地主が土地を買い戻そうとしても、地価が格段に上がるため十分の一くらいになってしまうことが明らかになるや、現地説明会では反対ばかりとなった。そこで、新住区域を丘陵地に留め、平地では区画整理事業で開発を行うこととなった。千里や泉北、高蔵寺、港北、千葉などのニュータウンに比べて、これは異例のことであった。しかし利点もあった。
 新住事業は要するに、お役所の事業でございますので、やれる事が限られております。ところが、都会は雑多な機能が集まっているところが魅力であるわけですから、あまり綺麗すぎてはどうも面白くない、活気がないんです。ところが区画整理事業ですと土地の保有形態が変わりませんからその土地利用の制限がない。縄のれんがあってもキャバレーがあってもおかしくはない。(中略)それから宗教というのは日本の行政でアンタッチブルですから、教会を新住につくるわけにはいかない。

このような方針が取られた結果、鉄道会社は、ニュータウン内で開発利益から直接的には排除された。小田急が多摩線の沿線でやや小規模な区画整理を行ったのみである。従って鉄道の建設が住宅の建設に先行することは出来ず、当初は全て京王の聖蹟桜ヶ丘までバス連絡となった。
建設資金の新たな調達方法として、NT(ニュータウン)線方式が登場した。これは、新線を日本鉄道建設公団が建設し、開通後も公的資金で25年の長期の低利融資が行うもので、東京都と国が利子補給を行い、鉄道会社側の負担を軽減する方法である。また小田急の場合で額を挙げると、新百合ヶ丘―多摩センターの建設費420億のうち167億を、開発施工者として東京都、住宅公団、東京都土地開発公社が分担して負担した。京王は1972年に多摩センターまで、小田急は同年も同年に永山まで開通した。いずれも線形は東急田園都市線と異なり、130キロ運転も可能な良好な線形 (19)である。
しかし、既存路線の複々線化は費用負担の問題から遅々として進まなかった。京王に至っては1978年に新宿―笹塚を別線で地下複々線化した後は、線増をやめてしまった。小田急も構内線のような東北沢―代々木上原以外は進まなかった。要は割安な定期代の客のためにラッシュ時だけのための線路設備を整備するのは私企業として割に合わない (20)ということである。
このような社会的損失の問題を解消するために、1987年には特定都市鉄道整備促進特別措置法(いわゆる特特法)が施工され、輸送力増強のために割り増し運賃を適用できるものとなった。しかし、京王はピーク時の全列車の10両化(21)でお茶を濁し、逆に積み立て分を値下げに回した。小田急は登戸―東北沢の複々線化に本格的に着手したものの、既に市街地化した都内の用地取得は難航し、現在は和泉多摩川―喜多見が完成しただけである。何とか今年の12月に複々線区間が延長されるが、井の頭線との接続駅で乗降に時間がかかる下北沢がボトルネックとなり、スピードアップは出来ても増発はできない。全線の完成はまだ遠い上に、当初の計画の新百合ヶ丘までの複々線化は実質的に断念されたといってもいい。
結局、崇高な輸送計画に反して、1960年代後半から1970年代に多摩ニュータウンに入居した人は定年まで混雑する遅い列車で通い続けることとなった。しかも小田急は、昼間は多摩線内の折り返し運用のみであり、新百合ヶ丘からいつも混んだ本線急行に乗り換えねばならない。
これに対して京王は1992年から相模原特急の運行を開始した。これは停車駅を明大前・調布・多摩センターに絞った画期的な列車であり、20分サイクルの中では高尾行きの急行に続行(ノロノロ運転で)し、相模原線内で通過運転をして多摩センターで快速(相模原線内は各駅停車)に緩急接続するものだった。2001年3月改正で本線特急+橋本急行のパターンに変更された以降の方が、座りやすさは減少したものの、実質10分サイクルの利便性と2分の時間短縮で発展解消したとみるべきだろう。
だが2000年に多摩モノレールが多摩ニュータウン中央まで延伸されたことと相まって、多摩ニュータウンからのストロー現象が進展した。唯一の総合百貨店だった多摩そごうも赤字で閉店した(後継の三越は売り場を絞り込んでいる)。


(注1)東急の多くの路線網は、五島慶太が周囲の東京西南の私鉄群を統合していった結果、一つの鉄道となったものであり、玉川電気鉄道や池上電気鉄道(現 池上線)も独自の歴史を有している。玉川電気鉄道の歴史などは東急本体などよりは、ずっと古い歴史を持っている。しかし歴史意識の問題として、現在の東急が五島慶太と目蒲電鉄を自らの起源としており、且つ東急の総合グループとしての性格を考慮に入れれば、設立時に土地開発と鉄道運営が一体であったという点において、目蒲電鉄から話を始めるのは誤りないものと考える。
(2) 猪瀬直樹『土地の神話』小学館・1988は東急電鉄の批判的歴史として面白い。
(3)文京区などの高台の住宅地に比べると、東京の中での格は落ちるのだと、作家の田中康夫はつねづね主張しているが、「高級」の概念を作り出すのが今やマスコミである以上、田園調布は「日本最高」の高級住宅地であろう。
(4)本来のイギリスの田園都市は、公害と喧騒に満ちたロンドンの市街から離れた緑豊かな郊外に、職住近接の小都市を造ることを目的としており、出発時点から日本の田園都市概念の導入には限界があったことは、既に指摘されている。
(5)イギリスの田園都市構想には、自動車交通を主にするか、公共交通重視かという論争があった。
(6)昭和に入ると小林一三も慶応=三井系の人脈から大手電力会社の東京電燈の経営に関わると共に、東京宝塚劇場、第一劇場の建設で東京に本格的に進出する。
(7)目蒲電鉄=田園都市株式会社の経営に携わる以前から、五島慶太は武蔵電鉄の役員となっていた。
(8)現在の五島美術館に当たる。現在の観点では広大な日本庭園を持つ大邸宅だが、当時の財界人の邸宅としては平均的なものである。
(9)当初の計画には、田園都市線の沿線からやや離れて、現在の港北ニュータウンの一部も含まれていた。これは現在の第三京浜道路がもとは東急による私営高速道路「東京ターンパイク」として計画されており、ここを通るバスによって通勤輸送を「とりあえず」行う予定であったためである。
(10)本来は路面電車の玉川線の延長だったが、戦時中の工業生産のための輸送力増強のため鉄道線の大井町線が延長運転する形に変更された。
(11)1963年の長津田延長から1979年の新玉川線開通まで大井町―二子多摩川も田園都市線と呼称されていた。
(12)18m車の7000系か7200系の8連。
(13)4扉車として乗降をスムーズにする効果もある。
(14)三菱電機の商標であり、鉄道用語としては近年は「横流ファン」と呼ぶことが多いが、従来の呼称に従う。
(15)以下、北条晃敬「多摩ニュータウンの建設経過と課題」(「総合都市問題研究」10・東京都立大学都市研究センター・1980)を参考とした。これは計画の中心となった東京都の担当者自身による講演の記録であり、当事者ならではの生々しい声が記されている。
(16)西武多摩川線の延伸も検討されたが、起点が中央本線の武蔵境であり、都心に直結していないことから計画から除外された。戦後最大のラッシュ時輸送量を誇った中央線の混雑を激化させることは出来なかったためである。
(17)なお八十島義之助氏は東京大学工学部土木工学科の交通研究室(当時は一般交通工学講座)の主任を歴任し、戦後の交通計画の研究・策定に携わってきた人であり、東京大学鉄道研究会の初代顧問教員でもある。
(18)相模湖方面への延伸も計画されたが、用地買収の困難などから沙汰やみとなった。
(19)半ば感覚的なものではあるが、2001年まで存在した相模原特急が本線のノロノロ運転からうってかわって、相模原線に入ると一気に多摩センターに直行する様子は如何にもニュータウン新線を疾走する快感を味あわせてくれた。
(20) 国鉄は首都圏5方面作戦で線路別ながら複々線化を達成したが、外環状貨物線の建設費も含めて兆単位のコストとなり、幹線の貨物輸送、東北新幹線と並んで(ローカル線の赤字は大したことではなかった。)膨大な国鉄債務のうちの多くの部分を占めることになった。
(21)優等列車の混雑は殆ど変わらないが、名目上のことながら普通列車の輸送力増強で平均の混雑率を下げる効果がある。

西武残酷物語 [鉄道]



1979年に出た本で、鉄道と流通の両西武グループ批判の本としては早い時期のものである。
ほとんどの内容は他の本にもあるものだが、他の凡庸な経営本にない独自の情報を含んでいる。その最たるものが近江鉄道の堤清の位置づけと、滋賀県政との癒着問題を書いたものだ。

(西友が八日市市の再開発に乗じて商店街をつぶし、一等地に店舗を作ったことについて)P18から
実は、この一連の動きに貢献したのが武村(正義)滋賀県知事だった。いかに大衆がおろかであろうとも、ここまできて西武グループと武村知事・滋賀県政とのゆ着(ママ)ぶりを気づかぬはずはあるまい。八日市商店会の面々は、武村知事と真っ向から対決する構えを見せ、知事に対して
「市を売るのか」
との大デモンストレーションを行ない、ゆ着ぶりを追及した。これに対し、知事のほうは逃げの一手に終始。注目された割りに何の解決策もないままである。
ここで興味深いのは、世論に反してまで、なぜ武村知事が商店街潰しをし、しかも市庁舎の隣のカド地に西友ストアを持ってきたのかというナゾである。
武村は、かつて八日市市長であり、県知事になる前、西武との関わりは深かった。選挙の際に票も金も世話になったという。八日市市が西武一色に塗り変わった一事を見れば明らかである。今後、近江鉄道への県費援助や種々の開発許可など、武村が西武に有利な”事業”を起こすことは間違いないだろうと、地元民の多くが語っていた。また、「目的のためには手段を選ばない」西武商法は、これからも滋賀県のあちこちで猛威を振るうことであろう。いよいよ”強い西武”に兄弟たちの結束が固まってきているということだ。

ムーミンパパこと武村正義は自治官僚から若き八日市市長、滋賀県知事を経て、1990年代の政界再編期に新党さきがけを作って、細川内閣で官房長官、村山内閣で大蔵大臣に上り詰めた人物である。当時は細川護煕と並んで政界のヒーロー的存在であった。
だがその政界風見鶏ぶりが悪いイメージに転じようとしていたため、否の首相の鳩山由紀夫が新党さきがけを離党して、新党の(旧)民主党を創設したときに「排除の論理」によって民主党入りができず、自らの落選で政界引退に追い込まれた人物である。
本書に書かれたことが事実として読むかどうかは眉唾だが、本書の他の部分は類書のない時代によく取材して書かれており、一面の真実を伝えているのだろう。業者などの癒着などとは無縁に思えた小泉純一郎が政治家の中で人一番堤義明の世話になっていた事実に通じるものがある。政界の一匹狼的な存在はどこかに強いパトロンを求めるものだ。

他に西武グループに関して読むべき本は多い。まず当事者のものから。


西武の大番頭が書いて、当時は直ぐに買い占めにあって入手困難だった本である。

やはり文学者としての兄の本は欠かせない。
当事者が赤裸々に父の悪事を明らかにしたのだから。
最初に書いたのが、自伝そのもの『彷徨の季節の中で』である。
大抵の西武本は堤康次郎の異常な女性関係、家族構成のネタをここから拾っている。

最近になって父の立場から肯定的に見直したのが『父の肖像』である。





外部の著者のものとしては、以下が必読である。

リンクに表示されるテキスト
このころの東京都副知事の書くものは面白かった。天敵の田中康夫によれば、手下の調査記者の情報をまとめただけで、独創性はないというが、これだけ厖大な内容を手際よくまとめて面白く書く能力は評価されるべきだろう。


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国鉄時代の視点そのままのJR東海 [鉄道]

JR東海にとって、国鉄債務の負担はケレス氏のコメント通りです。粗利益率から言って当然とは言えるのですが、本当は国鉄の地域分割自体の失敗でしょう。

だいたいJR東海にシートコントロールという発想がない。昼間の閑散便や深夜便に飛行機の特割1みたいな価格格差を導入すれば、高速バスや飛行機は壊滅しますよ。飛行機は別として、高速バスなんて安いから乗っているのであって、同じ値段で新幹線で移動できれば、昼行で2時間半を切る区間で誰も夜行バスなんて乗りません。TGVでもDBでもアムトラックでも、そういう激安運賃を含んだ運賃体系になっています。それでいてビジネス需要の多い朝夕の便は割り引かない。
ビジネス需要が安い便に流出することを心配しているのでしょうが、割引の時間帯を絞ったり、安い運賃に乗車変更を禁止すればいいだけです。そうして、日本でも航空各社は割引運賃の払い戻し手数料でも儲けています。前便変更ができた前売り21から旅割系への改悪は、手数料稼ぎです。
まあ京都・大阪向けのホテル1泊付きの一部のツアーでは列車限定で大幅な割引をやっています。が、知名度が低く、飛行機の同様のツアーに比べてあまり利用されていません。旅行代理店でもその種のパンフレットの扱いも小さい。

グリーン車3両も需要を無視した暴挙ですね。100系グリーンの時代に客が集中してG編成で3両にして、わずかな本数で客が集中した初期「のぞみ」でグリーン車3両を持続したわけですが、のぞみ8本ダイヤでは無駄の長物です。
飛行機はもっとシートコストにシビアですから、同様のことが起これば普通席を増やすか、グリーン車の1両をラウンジなどにして、快適性を高めます。DBはICE1を最近改装しましたが、ICE3のように食堂車の廃止はせず、1等車の座席の交換に止めました。
確かに食堂車より1両のグリーン車の方が利益率は高いのですが、それはグリーン車の乗車数が2両分を超えた時だけです。普通席が満席になっても、グリーン車がそこまで混むことがどれだけあるでしょうか?
現在のグリーン車は窓側に1席しか座らない状態で快適性を確保している面がありますし、その施策は支持できます。
しかしながら、それならJR九州やJR東日本のように、グリーン車の上のクラスを作って、より高い運賃を取ればいいだけです。座席数は従来のグリーン車より減りますが、どちらも満席にならない状況だと、値上げした分だけ利益が上がります。
現状の東海道新幹線のグリーン車ではサービスと快適性の点で、JALのファーストクラスには相手になりません。(N700系のグリーン車の座席はリクライニングしない時の座り心地が従来より悪化しています。前ならフルにリクライニングしている客は少なかったのに、N700系だけ多いことが多頻度利用客の厳しい目を物語っています。)

東海道新幹線の貧弱な設備に特化したN700系をアメリカに輸出しようとして、葛西会長が渡米したものの
「最高300キロしか出ないの?そんなの時代遅れだよ」
と向こうで言われてしまったのは喜劇的でした。
(北米生産による雇用拡大にも意見が集中しましたが)
・車体傾斜なんて、最初から路線の回転半径を大きく作れば要らない(アメリカの高速新線計画はどれも完全新線です)。
・N700系の先頭形状はトンネル突入時の衝撃波などに配慮していますが、スペインやフランスなど最近の高速新線建設では、トンネルの断面を大きくしたり、入り口をラッパ状の形状にすることで衝撃波対策をするのが一般的です。

海外輸出の点ではN700系のメリットはそれほどないのです。
無条件にJR東海の人たちは「東海道新幹線は世界一」
と国鉄時代のままに盲信しているけど、世界は違うのです。
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やはりWEDGEは駄目だった 高速道路無料化批判について [鉄道]

東海道・山陽新幹線のグリーン車に乗ると、無料で読める(持ち帰れる)雑誌である。内容は大手企業がバックにあるとは思えない総会屋臭のする記事が多いが、ネタにはなる。(葛西敬之の思想の反映とも言われる)
車内販売や私鉄のキオスクなどでも400円で買うことができるが、JR業務用の大型時刻表と同じで、車内のものは価格表示がない非売品扱いである。

今回の目玉は全体として民主党政権たたきのようで、冒頭近くに載っているのが
「高速無料化は愚策 元凶はニセ民営化」
というものだ。
某氏の言うように、JRにとっては「おまえが言うな」とも称すべき内容だ。が、JR東海は厖大な国鉄債務のうちでJR負担分の多くを負担している親孝行(?)な会社だから、これくらいは主張することは許されよう。
筆者もただ者ではない。一橋大学名誉教授で、高速道路民営化を主張する著書を岩波書店から(岩波ブックレットだが)出している宮川公男である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B7%9D%E5%85%AC%E7%94%B7
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0093200/top.html

だが内容は乏しい。道路公団民営化のあり方を批判する内容は肯是できる(講演で聞いた限りは、葛西も同じ意見のようだ)。が、民主党批判の部分は国際的視野と地方の事情への目配りを欠いている上に、民主党の政策すら吟味しておらず、ピント外れの内容である。
筆者の最大の主張の根拠は
「高速道路料金は特急料金のようなもの。時間短縮と設備料金である。金を払いたくないなら、時間をかけて一般道を行け」
という原理である。
これに派生して
「高速道路料金は時間短縮効果の時間価値に対応する」
「高速道路を無料化しては、渋滞で時間短縮効果がなくなる。料金と引き替えに所要時間を短縮させる機会を失わせる」
「民主党の主張する経済効果は疑問である」
という主張につながる。地球環境問題との関係は論じられていない。

一見尤もらしいが、世界の鉄道や高速道路事情を知っている者からすれば、前提がおかしな議論である。
ドイツやイタリア、東欧にはIC料金、ICEやESスターの追加料金の概念はあるが、イギリスやフランス、ベネルックス三国、スイス、オーストリアなどには、日本のような特急料金の概念はない。距離比例の普通運賃体系があり、別個に割引運賃などがある。航空機対抗で長距離ほど驚異的な安値も多い(チューリッヒ~ウィーン29ユーロなど)。アメリカもアセラは別として、アムトラックに特急料金という概念はない。寝台車やクラブカーの設備料金を取るだけだ。
特急料金のたとえは、日本の国内的な狭い常識しか知らない多くの新幹線乗客をだましているようなものだ。

バス業界ではもっと逆の認識である。運賃は運転手の人件費(が8割くらいを占める)必要経費、すなわち所要時間に比例するという発想も一般的である。西鉄バスなどは一般の路線バスでも都市高速道路経由の方が乗客の利便性が高いにも拘わらず、下道をだらだら進む路線より運賃は安い。
一般に高速バスは普通の路線バスより設備がよく、所要時間の短縮が図られる。にも関わらず一般路線バスより距離比例で運賃は安くなっている。典型的な事例としては金沢~富山の高速バス(北鉄金沢中央バスと富山地鉄)の運賃と、金沢~福光のJR・加越能バスなどが挙げられる。富山の方が倍くらいも遠い。
東京近郊はけっこう長距離で均一運賃のバスが多いので分かりづらいが、均一運賃でない近郊区間のバス運賃は結構高いものである。

韓国の市外バスと高速バスの関係も同じである。昔は京釜高速を走って大都市を結ぶ高速バスと、地方都市を一般国道で結ぶ市外バスという明快は区分があった。車両も全くレベルが違った。ハイデッカーの高速バスと、トップドア・ロマンスシートの一般バスといった感じだったらしい(これは詳しいひとに教えてほしい)。現在では設備の差は相対的(かつての東京空港交通と京急の空港バスの関係を思えばいい)なもので、市外バスも高速道路を走ることも多い。
だが相対的に設備が劣る市外バスの方が、距離に比べて高速バスより運賃は割高である。

特急料金という概念自体、世界では普遍的ではないのである。


そもそも無料にすれば渋滞するという前提がおかしい。ドイツのアウトバーンやアメリカのインターステイトハイウェイの中で日常的に渋滞するのは、都市部のごく一部である(行楽シーズンは別だ。ラスベガス~ロサンゼルスは全線で最低で片側3車線確保されているが、週末は砂漠の真ん中で渋滞したりするし、欧州のバカンスは日本の盆暮れの比ではない)
前に書いたように、国土交通省の予想でも、無料化で渋滞するのは大都市近郊とせいぜい政令指定都市レベルだけである。
暫定2車線区間は別だが、これは世界水準に4車線化するのが辺り前だ。民主党も4車線化中止は緊急避難であることは、強調している。だいたい平野部でトンネルのない区間は工事費もかからないのに、4車線かが進んでいなかったりする。従来の高速道路工事は利用者の便益のためでなく、土建業者を潤して、経済効果を得るために、工事費のかかる区間を先に工事していると思わせるものも多い。まあ国鉄の羽越本線や奥羽本線の複線化工事もそうだった。交流電化で非電化時代のトンネルは掘り直しが必要なので、工事費のかかるトンネル区間の複線化は進むのに、田園風景を走る青森平野や庄内平野、秋田周辺が複線化されない不思議である。
そもそも民主党の主張では、渋滞する道路は無料化しないと明記しているのであって、それを忠実に実施すれば無料化で渋滞するはずはないのである。
確実に無料化されて意義があるのは、北海道など本当の閑散区間か、北陸自動車道、中国自動車道、北東北の東北道など全線4車線化されて久しい道路である。

だいたい時間短縮効果論は、都市と地方の所得格差を無視している。公務員や公益企業以外、地方では年収300万以下、月給20万円以下の層がどれだけ多いことか。鹿児島県阿久根市の市長が選挙で支持されているのも、公務員以外の所得が低すぎるからだ。この点で民主党の最低賃金引き上げ案は企業の海外流出を招く可能性はある(そんな近視眼的な選択をする売国的な企業は、松下幸之助が言ったように長期的にはつぶれるか衰退する)ものの、地方振興策としてリンクしている。
北陸や長野は大都市に次いで県民所得が高いので、ここでは除いて考える。青森や秋田あたりの事情を見てみよう。正社員で月の手取り12万円も当たり前だ(驚くべきことに20万円以下の手取りの世帯で、妻は専業主婦だったりするのだ)
それでいて、文化的生活と世間体には大人一人1台のクルマは必須だ。軽自動車にして節約するほかないが、通勤割引で300円程度の高速道路台も払えない。毎日往復で使ったら1日600円、20日出勤で月12000円だ。月収30万円以上あればどうにかなるが、15万円だったらどうだろう。
だいたい収入が時給換算で600円台だったら、渋滞で片道30分余計にかかっても一般道を使うのが、初歩の経済学だ。しかも家計が苦しければ、その300円すら節約するのが人情だ。たとえ渋滞で1時間余計にかかってもである。
ガソリン代を考慮しても、大勢は変わらない。渋滞で燃費が悪化してリッター20キロが10キロになっても、20キロの移動にかかる追加コストは1L分のガソリンで120円程度である。高速道路代よりはるかに安い。
そもそも地方住民の全てが、このような合理的計算の下で行動選択をしているとも思えない。多くの人々はガソリン代を自動車税と同じ固定コストと考える一方、高速道路を贅沢品を考えて使わない習慣となっているのが実情である。

週末の遠出なら、高速無料でも半額OR上限1000円でもいいかもしれない。ガソリン代との比率が問題だからだ。毎日なら、半額でも地方民には高すぎるのだ。
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前原は国土交通大臣として鉄道写真マニアの通弊を打破できるか? [鉄道]

前原誠司が国土交通大臣というのは、多少はサプライズな人事であった。せいぜい防衛大臣あたりにしておくかというラインで、外務大臣にするには安全保障政策が自民党より右よりで微妙というところであった。

「前原は鉄道マニアだから国土交通大臣になった。高速道路無料化も相対視できそう。」
という見方もあるようである。
だが、私は寧ろ前原の鉄道マニアとしての側面には危惧している。
彼が交通全体の中で冷静に鉄道を見て、社会の中でよりよい鉄道のあり方を考えるというような交通政策的な関心を、従来の発言やインタビュー(鉄道趣味の立場からのものを含む)などから窺うことができないのである。そして見えてくるのは、悪い意味の視野狭窄な鉄道写真マニアの立場である。

鉄道写真を趣味とする人の中には、広い興味見識をお持ちの方も多いことを承知の上で申し上げる。
彼等にとって、自分がSLなどの良い写真を取るという被写体への欲望以外には何もないという人も、写真マニアの中には少なくない。イベント列車や復活運転、いわゆる葬式鉄などは、数が増えすぎれば有害無益な存在だと思う。どうして有名撮影地で周りの何百人と同じ構図で写真を撮らなくてはいけないのだろうか?誰かが撮っていてくれれば、記録が歴史に残って十分ではないか?おおよそ学問では先行研究のある分野に屋上屋を架すことほど無意味なことはなく、自己の勉強以外の意味を持たない。
そもそも復活運転やSLの特別運転などがあっても、鉄道写真マニアはあしきフリーライダーである。彼等は列車のきっぷも買わず、運転にかかわるコストも負担せずに、自分のエゴで写真を撮りまくるだけである。それもセミプロ級、ましてやプロのカメラマンともなれば、日本全国自分の車か、遠方ならレンタカーで撮影地を廻るのが常識であって、18きっぷ利用者は写真マニアではマイノリティーである。

前にも書いたが、国鉄常務理事からJR東日本の副社長鉄道事業本部長、副会長、会長となった山之内秀一郎は
「鉄道マニアの興味、知識などは鉄道会社の運営にとって何の価値もない」
と言い続けた。JRのみならず鉄道会社全般の共通認識といっていい。技術系は他として、文系ならばマニアを落として一般人を採用しろというのは鉄道会社の人事の常識である。自分の撮影の都合で臨時列車のダイヤを決めた(ことを周囲に豪語する)JRのマニア社員を私は複数知っている。
鉄道写真にも模型にも興味のない鉄道マニアとして私は言うが、マニアの多くが近親憎悪する川島令三のような考え方こそ鉄道会社にとって(彼の意見に賛同するかどうかは別として)意味がある。

とにかく日常の鉄道会社がビジネスとして存続し、交通体系の中でより良い位置づけを得るかという問題意識の抜けたマニアは実に多い。鉄道写真マニアだけでなく、乗り鉄にも多い。
青春18きっぷのために県境の閑散区間の普通列車を増発しろという類である。上越国境のように、明らかに18きっぷのために普通列車の本数を増発し、ボトルネックを解消するということもないわけではないが、鉄道会社が恩寵としてやっていることであって、無理に要求することではない。静岡県内の東海道新幹線停車問題とはわけが違う。
初めて一畑電車(例に出して悪いが)に乗ったときに、私は昼間の本数が1時間ヘッドで、線形の割に速度も遅いことに半分義憤を覚えた。こんなことでは自動車に勝つことはできないし、交通機関としての意義を失って廃止されるのがオチである。
そんな話しを隣のマニア親子にしたら
「本数が少なくてのんびりゆっくり走っていてくれた方が、旅行の楽しみになっていいんですよ」
そういう見方は間違っている。1回かそこら乗るだけの旅行客は乗り鉄は鉄道の存続にとってびびたる意味しか持たない。売上の大半は沿線に住む毎日の通勤通学客が高い定期運賃を払って集まっているものである。沿線の人々にとって便利で使いやすい鉄道でない限り、意味はないのである。
観光鉄道、欧米のような保存鉄道という選択もあろう。
だが欧米の保存鉄道は、厚い篤志家の寄付(優遇税制に支えられて)と週末のボランティアによって支えられているのである。また黒部峡谷鉄道やスイスの登山鉄道のように高い運賃を取って、かつ多くの旅客を繁忙期に集めて初めて観光鉄道は成立するのである。大井川鉄道だって、SL列車は観光バスの団体を山ほど誘致して現状維持ができているのだし、大株主の中部電力が有形無形の支援を続けて成り立っているのだ(創立時の筆頭株主が宮内大臣、すなわち天皇家の個人財産であるなど、この鉄道は一筋縄ではいかないようだが)。

前原は当面はダム問題(吾妻線の日本一短いトンネルを遺すためにダム反対を決断したとの見方もあるが)と高速無料化問題、公共工事削減に注力することになって、交通政策そのものには関われないかもしれない。
そうなると注目されるのが交通問題担当の辻本清美副大臣の出番である。
(週刊金曜日に「辻本副大臣でピースボート国有化、高齢者をクルーズに無料御招待」という内輪ネタ漫画があって笑った)
ピースボート自体、規制と因習だらけの海運業界に革命的に参入した驚異的な存在である。ボロ船の故障問題など、さんざん世間を騒がせながら、ここまで安定して世界一周航海を継続していること自体、どれほど関係機関への根回し、関連法規などの間隙を縫うような術策に長けていることが想定される。
こちらの人事の方を注目すべきかもしれない。

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鉄道の遅延は増えたか [鉄道]

東京時刻表とかインターネット上の乗り換え検索がある前って、一般人には乗車駅のホームの時刻表以外に通勤電車のダイヤを知るすべはなかったと言っても過言ではない。乗車時点で既にひどく遅れていなければ、乗車中は遅延に気づかなかったはず。ターミナル駅の入線待ちの遅延なんて、あまり意識されなかったはず。
普通の人は各社がたまに発行する冊子の時刻表なんて見ないし(有料無料を問わず、出さない会社も多い)、大型時刻表を見てもJRの近郊路線や私鉄の詳細なダイヤは闇の中だったわけである。

とはいえ、遅延が拡大しているのも嘘ではないようだ。昔の朝ラッシュの動画とかを見ていると、本当に修羅場である。力づくでドアから短時間に自分の身体を車内に押し込んでいたから、遅延は出なかったらしい。今の乗客は欧米風に上品すぎるからとか。東急田園都市線や東西線でもそこまでひどいことはない。

近い過去を社会が忘れがちということは多い。冷房があまりオフィスや通勤電車(東京の地下鉄が完全に冷房化されるのは1990年代半ば)に普及していなかった時代は元祖クールビズで、夏は上着もなく、ネクタイを締めず、開襟シャツがサラリーマンの標準ファッションだったりする

http://www.j-cast.com/2008/02/16016744.html
小田急はなぜ「毎日」遅れるのか 通勤客の不満ネットで噴出

1974年の大阪駅付近 [鉄道]

http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/74/ckk-74-8/c14/ckk-74-8_c14_19.jpg

・梅田貨物駅がJR高架の南側まで延びている。
・大きな再開発ビルが梅田第1ビルとマルビルしかない。第二ビルが工事中。ヒルトンも第三第四ビルのあたりも再開発前で群小の家屋が多数。これをよく地権者をまとめて、再開発したものだ。
・梅田新道の渋滞が半端じゃない。当時は西宮まで阪神高速神戸線も全通していないし、下道の車が多かったのか?
・大阪駅から御堂筋を通って、梅田新道との交差点に南下してくると、交差点手前の車線仕様がカオスである。片側4車線の中央分離帯を無視して南行き車線を増設してある。北行きを2車線に制限。
・先代の大阪駅舎は意外と小さい。そして周りが広大な平面駐車場である。料金所などが見えない所から無料らしい。あるいは観光地の駐車場のように、係員が個別に駐車料金を徴収していたのか?
・バスターミナルが通り側に隔離された、車中心仕様である。バスパースが少ないが、これで国鉄バスと大阪市バスの発着をさばけたのだろうか?

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N700系始発上り「のぞみ」の憂鬱 [鉄道]

(以下は昨年2008年2月に乗車した際の感想です。新幹線ダイヤそのものには改訂が加えられ、現状と異なる事項もあります。今では名古屋始発「のぞみ」もでき、早朝上りダイヤは改善されています。)

600発の、のぞみ100号に新大阪から乗ってみた。
本数がどんどん増えているN700系くらい、簡単に試乗できると思ったら、東海道新幹線区間で本来の曲線通過性能を発揮して走っている列車は現行ダイヤでは少ない。誰がN700系に乗って2時間33分か36分もかけて、東京~大阪を移動してやるものか!!!!
「遅い遅い」と言われた100系でも、新横浜停車で最速2時間50分のスジで走っていたのだ。末期でも、のぞみから逃げ切るスジでは、余裕時分を見ても普通は2時間53分だった。けっきょくN700系でも大して所要時間短縮になっていない気がする。
依然として私は
「原則として、東海道新幹線はボイコット」
を続けているが、いくつかの例外で利用を認めてきた。
・500系、西日本の700系の運用。
・他の人に合わせるとき
・名古屋からの移動で、新幹線利用でないと東京に於ける用事に間に合わないとき。

今回も初乗りということで、自分として利用を認めることにした。乗車券は、どうせ「あかつき」からの続きであり、京都下車に3000円ほど足せば遠距離逓減で東京にたどり着けたためである。

意外とJR沿線以外からのアクセスが難儀。阪急神戸線からだと、大阪駅での接続が悪く、3分で東海道線各停に乗り換えるか、1本後で新大阪で4分で新幹線に乗り換えるかという地獄の選択。
まともな選択はJR東海道線(神戸線とは言いたくない)まで出ることだけど、それだと宿泊地から徒歩圏ではなくなってしまう。しかも京都まで乗車券を別購入となると、1000円を超してしまう。やはりJRの運賃は中途な距離で割高。阪急なら四条河原町まで行けて、500円台なのに。
いちかばちかで、阪急接続を使ってみることにする。
しかも前者を狙って乗車しようとしたら、長距離きっぷの途中下車なので話がやっかい。途中下車だと自動改札を通れないのである。
本当は昨日は京都まで「あかつき」を乗り通したので、大阪~京都が重複乗車になってしまう。大阪駅できっぷをまともに券売機で買っていては乗り遅れてしまう。といって、JスルーカードやICOCAでとりあえず入場しようとすると、だと倒壊の新幹線の改札で精算ができず、後でまた出場処理をJR西日本の駅でしてもらわなければならない。(けっきょく近鉄発行のJスルーカードでその羽目になった)。

前者の接続を狙って、やはり3分接続では駄目で、1秒差で逃げられてしまった。京急並に無言でドアを閉めるとは思わなかった。仕方なく続行の列車で新大阪の接続に賭けることにする。
新大阪駅では、不正乗車扱いされるような怪訝な目をされながら、簡潔に理由を説明しても分かってくれない(さすが倒壊クオリティーの)連絡改札を説明も中途に
「(自分でもDQNだと思いながら)いちいち精算していたら600の新幹線に乗り遅れてしまうでしょう。車内で精算します(飛行機みたいに責任をもって待ってくれるんですか?)。」
といって突破して、何とかN700系に飛び乗った。直ぐに発車。



だが、滋賀県の雪のために徐行運転だった。 ORZ

まあ、続行の700系だったら東京到着がもっと遅くなったんだから、選択は間違っていなかった。
肝心の遅延だが、さすがここは倒壊というべきで、東京到着で14分しか遅れなかった。ただし名古屋で半分以上の乗客が乗車するため、乗降に時間がかかり、そこまで12分遅れだったのに、遅延が拡大。けっこう余裕時分があるはずなのに、回復運転はそれほどしているようには見えなかった。なぜかN700系の曲線通過性能と関係なく、富士と浜名湖付近で200キロ程度まで速度を落としたようだが、それは敗因か。
事情を説明すると、さすが車掌は事情を速やかに理解してくれて、大阪~京都の特定運賃乗車券540円の券と、Jスルーカードの不使用証明をつくってくれた。やはり同様の客は多いのだろうか?


九州ブルトレ全廃の背景 [鉄道]

ダイヤ改正前夜 「富士」「はやぶさ」廃止など夜行列車の思い出
http://bokukoui.exblog.jp/10552211/

あちこちでさんざん惜別の声や昔話が出ているが、どうして九州ブルトレの利用が減ったのかを冷静に分析した文章は少ない。どうして「北斗星」や「あけぼの」が残って、九州ブルトレが駄目になったかを考えてみる必要があろう。

第一に、既に全廃された関西発ブルートレイン群に比べても、設備が陳腐であったことが挙げられる。
新造のサンライズや「カシオペア」と比べるのは酷だが、20年近く前から半数が個室化された「北陸」にも、設備が劣る。寝てしまえば同じとの意見もあろうが、走行時間が8時間に満たない「北陸」が個室だらけで、15時間くらいも乗る九州ブルトレがB開放寝台だらけなのはおかしい。混雑していた時代ならともかく、ここ20年ほど全く設備の改善が見られなかった。
(食堂車の問題は措く。徹底的に欧州の夜行列車だって非連結のものの方が多いくらいだ。時代の流れといっていい)
何しろ評価に値するまともな設備は、B個室のソロくらいである。それさえ改造から20年もの年月を経て古びているし、たばこ臭い。
A個室シングルデラックスには、登場時から酷評されたオリジナルタイプのオロネ25型0番台(及び改造後のオロネ15)を最後まで使い続けた。
(複雑な14系・24系の全体像は、今ではwikiにまとまっている。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%8424%E7%B3%BB%E5%AE%A2%E8%BB%8A
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%8414%E7%B3%BB%E5%AE%A2%E8%BB%8A
1両辺りの部屋数が多いため、横方向の余裕がなく、寝台幅も狭い。昼間の座席と寝台の転換機能もないため、「北陸」や「あけぼの」のシングルデラックスとは比較のしようもない。
別に新しく新車を導入しろと言っているわけではない。西日本持ちの「日本海」A個室(元は博多「あさかぜ」用)のオロネ25型300番台、「なは」・博多「あさかぜ」のB個室デュエットなど転用されずに、廃車もしくは放置されている車両がいかに多いことか。JR各社の会社の垣根の問題はあるが、寝台車の譲渡の前例がないわけでもない。

もちろん、2段のB開放寝台が駄目だという意見はあろう。だが世界的にはけっこう良い寝台設備である。
旧共産圏のソフトクラス、軟卧、二等寝台に相当する車両であり、2段B寝台はそれほど客観的に見てそれほど駄目な設備ではない。旧ソ連でも、これを上回る一等寝台は最上級の列車にしか連結されておらず、実質的に最高等級である。中国でも二人用の高包は限られた夜行列車にしか連結されていない。
欧州の6人クシェット(ほぼ20系3段寝台並の設備。ほとんど非冷房だから登場時の10系寝台並か?)とは比べものにならない快適さである。フランスの4人用一等クシェットやイタリアの新型4人クシェットに比べても、各寝台にカーテンがあるだけ日本のB寝台の方が上である。フランスの国内夜行だと、カーテンなしのB開放寝台に相当する1等クシェットが最高等級である。(国内専用のT2型寝台車の最後については私は知らない。誰か詳しい人は教えて)。スペインのタルゴや旧シティーナイトライン、オーストリア国鉄などの二階建て寝台車の4人個室に至っては、完全に日本のB寝台に負けている。
西欧のMU型寝台車など諸外国の個室寝台車と比べるべきはA個室のシングルデラックスであり、寝台料金も日本と欧州で似たようなものか、欧州の方が高い。円安で1ユーロ170円の時、1部屋で90ユーロのイタリアの旧型寝台車(T2型は知らないが、イタリアでもレアな存在なので除く。シャワー付きのエクセルシオールに至ってはイタリア国内運用でも125ユーロである)や100ユーロを超えるドイツ系の寝台車がどれだけ高価に感じられたことだろうか!!!

第二に、運賃施策を誤った点が挙げられる。B寝台に関しては客離れの原因は、殆どこれである。6300円という料金は中途半端に過ぎた。東京大阪など一部の大都市を除くと、東横インなどビジネスホテルのシングルルームと同レベルか、それ以上である。それに加えて特急料金が馬鹿にならない。国鉄時代以来の解釈では、冷房完備のブルートレインのサービスは特急に相当し、10系など雑多な編成の夜行急行とは隔絶された存在であって、合計で10000円近くにつく寝台料金と特急料金の二重加算は設備料金として当然のものとされた。
だが1970年代になってから昼行急行の殆どは驚くべき速度で冷房化され、夜行急行の寝台車も20系化、さらに国鉄末期には14・24系化された。こうなると設備料金の根拠は限りなく怪しい。
やや脱線して冷房の問題を考えたい。まあ最近では適用例があるのかどうかも疑わしいが、特急だと冷房が故障した場合は特急料金の払い戻しが受けられるが、急行普通車だと受けられない(旅客営業取扱基準規程第369条の3)。急行料金には速達料金は入っているが、設備料金は入っていない。ただし急行グリーン車の場合は話はややこしい。普通列車のグリーン車の冷房が故障してもグリーン料金は返らないが急行二等車の完全冷房化は1960年代後半のことであり、グリーン車制度の導入時に冷房の概念など制度変更が行われたようである。
20年近く前に寺本光照が著書で訴えたように、寝台特急という制度は廃止して、寝台列車として一括した運賃制度とし、実質的な値下げをはかるべきであったのである。(寺本光照『これでいいのか、夜行列車』中央書院・1990)

ただし価格面では国鉄改革以降はトクトクきっぷで頑張りが見られたことを忘れてはならないと思う。最新の三月号のJTB大型時刻表の1017ページに痕跡が残っている「往復割引きっぷ」の案内である。くしくも九州ブルトレの廃止に伴い、「寝台利用のきっぷは3月1日以降順次発売を終了します。詳しくはうりばの係員におたずね
ください」との太字の経過措置の案内が出ている。
最近になって、「のぞみ」の利用が可能になった以外、さんざんこの切符は改悪を重ねてきた。当初は東京発でも九州発でも32000円ほどで、B寝台で東京と九州各地の往復が可能だったのである。日本最長の夜行バスである「はかた」号の片道が15000円、往復が27000円であるから、かなり競争力のある運賃であった。さらに片道を「ひかり」のグリーン車、普通車利用とすることも可能であり、グリーン車で往復しても40000円程度の往復割引きっぷ(この運賃は今でも魅力的)と、片道ごとに寝台車との組み合わせが可能であったのである。
私が大学生になった2000年ころは、スカイマークなど新規航空会社の参入で国内線航空運賃の大幅割引が今以上に進んでおり、前日予約の東京~福岡の片道の実勢運賃は13000円から高くても18000円というイメージがあったので、この往復割引運賃にはあまり食指が伸びなかった。ソロを使えないというのはケチくさい気がした。
だがグリーン車との組み合わせには興味があったが、諸般の事情でこの運賃を使う機会を逸した。今から考えると、6時間ちょっとで博多に着く、100系グランド「ひかり」の2階グリーン車で博多行きなど、今では夢のようなことが可能だったのである。
のぞみ増発で山陽直通の速達100系「ひかり」が減っていったこと(「ひかり」に300系が入ってもスピードダウンした)、レールスターの誕生と同時に「グランドひかり」の食堂車の営業が終わったことなど、理由は多いが、ある段階で片道ごとの寝台車とグリーン車の組み合わせが不可能になったのが痛かった。次いでグリーン車用の設定がなくなり、(どちらが前か忘れたが)最後は九州発だけになった。
どうして航空機や高速バス対策に有効な割引きっぷをなくしたのだろう?
大手二社はたまにスカイマーク対策で閑散期の東京ー福岡線の特割7や特割1を1万円台後半に値下げするが、今や殆どの時は1週間を切ると片道27000円くらいを払う必要があるし、航空業界特有のきわめて長い春休み・夏休み・冬休み期間は福岡線の一切の割引がなくなる(ビジネスきっぷも繁忙期は値上がりするし、株主優待は万人向けではない)。往復4万円以下なら、価格面で十分鉄道に競争力はあるのである。


(あと2つの論点は後で)
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