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(4月1日)関西電力出資で北陸新幹線小浜ルートがルート決定、着工へ  [鉄道]

前田武志国土交通大臣は4月1日、新スキームでの北陸新幹線の全線着工計画を発表した。整備新幹線の新規着工決定は昨年の金沢・敦賀間に次ぐものとなった。ルートは小浜・亀岡を経由して新大阪に直結する小浜ルート案に決定しつつも、米原ルートも放棄されることはなく、ほどなく建設される計画である。

以前から北陸新幹線の敦賀以南のルートは米原ルート、湖西ルート(含む湖西線フリーゲージトレイン案)、若狭ルート案の三案に分かれ、整備新幹線の中で唯一、ルートが決まっていなかった。東海道新幹線のバイパスとしては若狭案が最も優れ、地域開発に貢献する度合いも大きいが、新線の距離の長さに伴う建設費の大きさが、北陸から中京東海地域へのアクセスに難がある点と並んで課題となっていた。
前田大臣の前任の大畠大臣は東日本大震災の教訓として、大震災発生時の国土の代替バイパスルートの建設促進を表明し、旧建設省技官出身の前田氏もその方針を踏襲する模様だ。東南海・南海地震発生時に従来の東海道新幹線は使用不可能となることは明白であり、北陸新幹線のルート選択においても、当該地震の影響の大きい米原ルートは回避された模様だ。

今回のスキームの最大のポイントが、沿線に原発を保有する電力会社が建設費の過半の5000億円を支出し、当該区間の線路を並行在来線と共に保有する第三セクターの大株主となる点にある。議決権を持つ普通株と持たない優先株、転換社債の比率については、今後の検討課題とした。
関西電力の出資分が最も多く3000億円、中部電力が1000億円、北陸電力と電源開発が500億円ずつを支出する計画だ。現在、関西電力は原発の再稼働を行なわない場合、火力発電の燃料費で年間約2000億円の追加支出を余儀なくされているが、大きな負担となっている。今回の資金を支出しても、原発を動かせない場合のコストに比べれば安いものなのだ。
鉄道アナリストの川島令三氏はこう指摘する。
「以前から関西電力は福井県に対して原発立地の見返りとして、小浜線の電化や県内の老朽化した交直流車両の代替車両の費用を負担するなどことをしてきました。今回の決定には驚きません。」
福井県内の原発再稼働の条件として福井県・滋賀県・京都府知事と綿密が打ち合わせが行なわれた結果と見られる。
関西電力の原発再稼働に反対してきた大阪維新の会は今回の決定を歓迎する構えだ。松井一郎大阪府知事はこう語る。
「従来、北陸地方は東京より関西と大きな地域的つながりを持ってきたが、東京一極集中の影響で、そのつながりは細ってしまっている。再来年度に北陸新幹線が金沢まで通じれば、金沢からの東京と大阪の時間距離が同じ二時間半になってしまう。大阪の地位低下は進む。」

政界事情通の間では、今回の決定を民主自民の大連立の動きの一貫と見る。
「福井県は前回の総選挙で高知県と並んで唯一、小選挙区で自民党が全勝した県です。そこに何とかして民主党も食い込みたい。その動きは昨年の敦賀着工決定にも見られましたが、今回で露骨になりました。今回のルートの沿線には、京都北部の自民党の谷垣総裁の選挙区も含まれますし、京都市を地盤とする民主党の前原政調会長との間で何らかの意見に一致が得られたのでしょう。」

東北地方への帰省輸送 [鉄道]

常磐線

東北本線に比べて圧倒的に客車列車が多い。それも東北本線に比べて鈍足ではない。勾配の少ない線形によって、蒸気時代から優等列車をこちらに回してきた伝統が生き残っているようである。「十和田」の本数が異常であるが、遅い時間に発車する列車は青森での到着が遅くなりすぎるため、以後は特急「ゆうづる」に格上げされてゆく。

8211 634 一関1424 みちのく51号 9月10~15日運転
201D  744 弘前2029 みちのく 花輪線経由 宮古1900(グリーン車 )、鳴子1449編成あり
8213  847 青森2128 十和田51号 全席指定、8月1~25日運転
8201  1040 仙台1704 そうま51号 7月25・26・8月1・2・9~16日運転
201   1210 青森2345 十和田1号 グリーン車・食堂車つき
8203  1446 青森400 十和田52号 2号の続行臨 7月25~8月3・5~14日運転
6201  1620 青森430 十和田2号 7月25~8月23日運転
6203 1950 青森815 十和田3号 9月5日まで寝台列車 、9月12~15日は座席車
8613 宮古816 みやこ 7月24~8月23日運転、全席指定・B寝台つき
203 2035 青森900 十和田4号 グリーン車・AB寝台・食堂車 つき
8205 2130 青森1128 十和田53号 7月25日~8月15日運転
227   2225 仙台845 長距離普通
205   2240 青森1110 十和田5号 AB寝台・食堂車 連結 
6205 2305 青森1140 十和田6号 9月6日まで運転。寝台列車、7月27~8月23日は座席有
207   2330 青森1230 十和田7号 B寝台・グリーン車・食堂車連結
8207  2340 盛岡930 みちのく52号 8月8日~17日運転

228   青森1034 455 長距離普通。227と組だが、こちらは青森発
6204  青森1530 500 十和田2号 指定席あり、7月26~8月23日運転
8208 気仙沼1814 506 南陸中 指定席あり、8月16~20日運転
    一関2051    みちのく53号 8月10~20日運転
204 青森1643 530 十和田3号 B寝台・グリーン車・食堂車つき
6206  青森1900 625 十和田4号 9月6日まで寝台列車、9月13~16日は座席車
8616  宮古1843    みやこ B寝台車・全車指定席
206   青森1930 653 十和田5号 AB寝台・グリーン車・食堂車(ビュッフェ)つき。
208   青森2135 952 十和田6号 AB寝台・グリーン車・食堂車 つき
8204  青森2330 1145 十和田52号 7月25~8月23日運転、8月6日はB寝台つき
6202  青森020  1210 十和田7号 寝台列車・9月7日まで運転
214M  仙台826  1415 そうま1号  10連中7連(サロ・サハシ入り)を平で増結
8202  青森430  1640 十和田51号 7月30~8月8日・10~24日運転、指定席あり
202   青森520  1653 十和田1号 食堂車・グリーン車つき
8212  盛岡1002 1934 みちのく51号 7月31~8月30日運転、指定席あり、11~13日暮里
202D  弘前840  2102 みちのく 花輪線経由、宮古940、鳴子1340発併結、8月11~13日は
8214  盛岡1315 2209 みちのく52号 8月9日~23日運転、指定席あり   日暮里止まり
212D   仙台1650 2300 そうま2号 8月11~13日は日暮里止まり


   上越線経由

新潟止まりの「佐渡」などを除き、羽越本線に乗り入れるものを対象にする。

6801D 1050 秋田2020 鳥海1号 新潟までは毎日運転の季節列車 、グリーン車有り
801   2100 秋田830 鳥海2号 AB寝台・グリーン車つき
8803  2155 酒田715 鳥海51号 8月11日~21日運転
6801  2235 秋田1057 鳥海3号 8月31日まで・10月1~31日運転、グリーン車つき
701   2248 新潟 527 天の川 A寝台つき寝台列車

6802D 秋田710  1722 鳥海1号 新潟から毎日運転の季節列車
8804  酒田1820 421 鳥海51号 8月10~20日運転
702   新潟2305 539 天の川 寝台列車
6802  秋田1805 600 鳥海2号 グリーン車連結、新津着2344で上越線内夜行
802   秋田1905 643 鳥海3号 AB寝台・グリーン車連結


これを見ると、電車急行にも「いわて」「まつしま」などの柱があり、「ばんだい」などには季節性が付加されている。続行臨とも見るべき客車臨時急行があるが、交直流電車が高価 で、定期列車の分を確保するのが精一杯で、ローカル列車などとも共有できる客車と、貨物と共用 の交流電機の組み合わせで波動輸送力を確保している状況が伺える。
また東北特急はどれも切符が入手難であった。且つ全席指定列車 も多く、波動輸送の助けとはならない。1980年代半ばまで485系は151系「こだま」の伝統に従って12・13連の固定編成をとり、波動客への対応は無視されていた。ただ全席指定特急は、それはそれで、指定券を確保した客に一定の快適性を確保していた。輸送力不足の路線の自由席 ほど不快なものはない。その意味で座席の足りないL特急は、鉄道に有力な競争手段がなかった時の産物かもしれない。
臨時急行には下り夜行・上り昼行が多い。これは休暇も短かったため、行きを夜行にして時間を節約し、帰りは疲れで勤務に影響を及ぼさぬよう、夜までに東京に帰り着こうとするためである。


   参考:当時の航空路線(当時の急行自由席、B・A寝台下段運賃+料金)

・当時の航空機が、運賃・輸送力の点で鉄道の有力な競争相手ではなかったことが分かる。運賃の低廉化と波動輸送に対応するためには、各空港のジェット化 を待たねばならなかった。

全日本空輸 羽田―仙台  6往復 YS11・フレンドシップ(F27)5200円(1770・2970・5970円)
      羽田―山形 2往復 F27 5400円(1860・3060・6060円)
      羽田―秋田 3往復 YS11・F27 7500円(2530・3730・6730円)
日本国内航空  羽田―花巻 2往復 7500円(盛岡2450・3650・6650円)      
        羽田―青森 2往復  10200円(2860・4060・7060円) 
        羽田―八戸  1往復 9800円(2690・3890・6890円)


・文中でも未解明の事項は多かった。既存の運輸史の記述が定期列車に偏っているからである。が、この頃は毎日運転の臨時列車や、2ヶ月運転を続ける季節列車などがあり、今日ほどその境界は明瞭ではない。本稿の内容についてより深くご存知の方があれば、ご教示いただけると幸いである。

・文中敬称略
・主な参考文献は文中に挙げた。他には
寺本光照『国鉄・JR列車名大事典』中央書院・2001
「鉄道ピクトリアル」連載『国鉄急行列車変遷史』(総目次がないのがつらい)
昭和45年10月1日現在『東北本線列車ダイヤ』仙台鉄道管理局・盛岡鉄道管理局
昭和53年10月               東京北鉄道管理局
(東京大学鉄道研究会で保有)
「簡易線」98年駒場際号特集『20年前の時刻表』の関連各稿
ARC 資料館http//www. urawa. cool. ne. jp/ beppu:過去の編成表のデータベース

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東北地方への帰省輸送 [鉄道]

2.最盛期の1970年8月

・ここでは敢えて夏を考察の対象とすることにした。冬は特に「ざおう」がスキー輸送と渾然一体となるからである。が、全国での知名度の問題があり、この段階でどれだけの列車が東北地方の夏祭りを視野に入れているか、判然とはしない。なお、電車特急、寝台特急については本題を外れる上、資料・文献も多いのでここでは省略する。

東北本線・磐越西線・奥羽本線

 ヨンサントウで東北本線は特急の最高120キロ化 が行われているが、1970年代後半のように特急街道という印象は少なく、電車急行 もあまり特急退避を受けない 。主な急行をリストアップすると以下のようである。

8101上野545 仙台1155 まつしま51号 1番手で客車ながら表定67キロ。10~20日運転
101M  640 盛岡1350 いわて1号 サハシ入り7連。表定75キロの俊足。8101を郡山で
       喜多方1111 ばんだい1号 グリーン車入り附属6連。        抜く。
6401D  655 秋田1720 おが1号 9月30日まで単独運転
101D  704 青森1825 八甲田1号  盛1620 久慈1830の附属編成を併結
       秋田1720 おが1号 本来は八甲田と併結して15連で運転
8123 710 会津若松1302 ばんだい51号 ひばり・つばさを待避。貨物列車 でスジが寝る。
8125  808  福島1244 あづま51号 急行とは思いがたい鈍足で秋田行き普通427に変身
1103D  913 新潟1618 いいで 磐越西線経由
       山形1529 ざおう1号 9月1日まで、10月1日~11月20日運転
8401  929 山形1617 出羽51号 普通449となって新庄に直通。8月1日~24日
     会津若松1327 ばんだい52号 8月1日~24日運転。小山までに1101Mを待避。
1101M 945 仙台1432 まつしま1号 普段は附属6連を福島で切り離すが、それを会津へ。
     会津若松1404 ばんだい2号 8月31日まで、9月12~15日運転
8127 1029 仙台1620 まつしま52号 8月1日~25日運転
103M  1115 盛岡1833 いわて2号 郡山で8127を抜く。 
     会津若松1523 ばんだい3号 
8103 1128 盛岡2005 いわて51号 
6113M 1225 仙台1716 まつしま2号 郡山まで毎日運転の臨時列車
1401M 1333 山形1845 ざおう2号 
6105M 1430 盛岡2200 いわて3号 
8413 1439 米沢2107 ざおう51号 宇都宮でひばり4号を待避。8月10日~14日運転
6107 1515 仙台2005 まつしま3号 毎日運転の臨時列車。黒磯 ではつかり2号を待避
1103 1547 仙台2038 まつしま4号 
       喜多方2020 ばんだい4号
8415  1726 秋田532  おが51号 全席指定。秋田から定期629大館行き
101 1900 青森616 八甲田2号 B寝台付き。仙台から夜行区間で増結。
401 1934 青森946 津軽1号 グリーン車、AB寝台つき。
6401  2006 青森830 八甲田50号 7月25日~8月10日、14日~9月1日運転
        大館900 おが2号 43年改正で設定された季節臨。この夏は座席車
8417 2115 男鹿915 おが52号 7月24日~8月23日運転
6103 2119 青森925 八甲田51号 9月15日まで。盛岡まで全席指定。2~5日は寝台    
103   2208 盛岡659 北星 寝台急行 昭和50年3月改正で20系特急 に。   列車
405 2222 青森1336 津軽2号 グリーン車、AB寝台付き。山形から有効時間帯 。
6105D 2230 小牛田520 まつしま54号  7月25日~24日運転。時間帯がやや中途半端。
       山形526 ざおう52号 7月25日~8月31日運転。8月11日~13日品川発
421   2239 青森2156 奥羽本線経由の長距離鈍行。福島発614で上野―福島夜行。
8105  2251 盛岡812 いわて53号 8月1日~14日運転。予定臨。
8403 2304 秋田1104 おが71号 8月12日まで、30日~9月13日運転。全席指定
403D  2308 酒田814 出羽 奥羽・陸羽西線経由 グリーン車付き。
107M  2317 盛岡825 いわて4号 北星に対応する輸送力列車で、昼行と共通運用 。
6109M 2328 仙台545 まつしま5号 8月31日まで運転。107Mの続行臨
8111M 2336 仙台550 まつしま55号 7月27日・8月4日~9日・19日運転
      会津若松448 ばんだい53号 7月25・26日・8月1~3・14~18日運転
1101 2340 仙台610 新星 A寝台つき寝台専用列車。完全なビジネス列車
6403M 2350 山形635 ざおう3号 毎日運転の臨時列車。8月11~13日は品川発
      会津若松508 ばんだい5号 
1103  2354 福島529 あづま2号 普通列車で仙台821。グリーン車つき。
      会津若松555 ばんだい6号 グリーン車・B寝台連結
8121  012  福島529 あづま2号 7月25日~8月21日は単独運転
6108 015 青森1330 八甲田52号 8月1~20・22日。10日は名古屋1708「あおもり」
8405  053 横手1400 おが53号 貨物列車に阻まれて福島643、8月11~13日
     会津若松715 ばんだい54号
  
422  青森629   436 奥羽本線経由の長距離普通。福島2214発。白河―上野は快速運転
8118 仙台2045  418 まつしま55号 全席指定8月10~20日運転。15~20日は石越・女川発 
8414 横手1644  406 おが51号 8月10~20日運転
1104 福島2330  444 あづま2号 仙台2052発の普通列車 グリーン車つき
2204 会津若松2303   ばんだい6号 B寝台、グリーン車つき
8120        520 ばんだい6号 7月23日~8月19日は単独運転 
6110 青森1440  454 八甲田50号 指定席あり、7月31日~8月2・5~9・11~20日運転
6108M 仙台2225 502 まつしま5号 ~8月31日・9月12~15日運転、8月16~19日は
404D 酒田1937  514 出羽 グリーン車つき、山形から指定席あり       全席指定
8106 秋田1623  524 おが71号 全席指定 7月30日まで・8月25~9月8日運転
盛岡1945  524 いわて52号 7月31日~23日運転 指定席あり
8716 新庄1930     なるご 陸羽東線経由 8月16~20日運転   
1102 仙台2315  544 新星 寝台列車 2130から仙台駅に停車し、寝台車を使用可能。
106M 盛岡2030  548 いわて4号 
6104 青森1720  604 八甲田51号 7月26~9月15日運転 8月3~6日は寝台列車
104  盛岡2110  614 北星 寝台列車
402  青森1444  623 津軽1号 奥羽本線経由 AB寝台・グリーン車つき
8416 男鹿1820  905 おが53号 7月24日~8月24日運転 指定席付き  下り52号と組
8130 盛岡2130    いわて53号 8月17~19日運転    
6402 大館1855 924 おが3号 8月25日まで
8114 青森1955    八甲田52号 7月26~8月11日・15~28日運転、19~28日は寝台列車
8418 秋田2205 1015 おが54号 8月2日~11日・16~20日運転、指定席あり
406  青森1925 1013 津軽2号 グリーン車・AB寝台つき
102  青森2359 1120 八甲田2号 グリーン車・B寝台・指定席つき
8122 仙台734  1425 まつしま51号 指定席
1104M 仙台836 1344 まつしま1号
102M 盛岡705 1444 いわて1号
1402M 山形955 1455 ざおう1号
8102 仙台1022 1605 まつしま52号 全席指定、8月2~26日運転
8432 山形924 1734 快速 上野―福島に5時間を要す。
8236 猪苗代1210 
6112M 仙台1130 1608 まつしま2号 毎日運転の臨時列車
8112M 仙台1142 1611 まつしま53号 全席指定 続行臨として設定して表定78キロ!
8402M 会津若松1152   ばんだい53号 全席指定 7月26・27日・8月2~4・12~19日
104M  盛岡930 1655 いわて2号
2104M 喜多方1220   ばんだい2号
6106D 小牛田1144 1806 まつしま54号  7月25~8月24日運転、16~20日は女川・石越発
8416D 山形1101     ざおう53号 7月25~31日運転
9124 会津若松1323 1915 ばんだい54号 8月11~14・16~20・9月13~15日運転
1106M 仙台1340 1822 まつしま3号 大宮でひばり4号を待避。
2206M 喜多方1343   ばんだい3号
1104D 新潟1220 1919 いいで 磐越西線経由 グリーン車つき
6404D 山形1322    ざおう2号 9月1日まで、10月1~11月20日運転
8104  青森720 2024 八甲田71号 予定臨 全席指定 8月24日まで運転 
8126 福島1601 2043 あづま51号 8月2日~14日・16~20日運転
6104M 仙台1508 1951 まつしま4号 毎日運転の臨時列車
6202M会津若松1533   ばんだい4号
8404 真室川1211 2127 出羽51号 8月1日~24日・9月13~15日 運転
8204会津若松1604    ばんだい55号 8月1日~24日・9月12~15日運転
6402D 秋田1104 2131 おが1号 9月30日まで単独運転
402D        2138 おが1号
102D  青森1007    八甲田1号 久慈1000 盛1210発を併結
6106M 盛岡1420 2143 いわて3号 毎日運転の臨時列車。8月11~13日は赤羽止まり 
6404M 山形1633 2154 ざおう3号 毎日運転の臨時列車
6204M喜多方1707    ばんだい5号




東北地方への帰省輸送 [鉄道]

(某媒体に2002年に書いた原稿の再録)

0. はじめに(夜行列車の現在について)


 戦後の高度経済成長は、日本の社会の姿を大きく変えた。その最大のものは農業から工業への労働力移動、農村から都市(太平洋ベルト地帯)への若年層の人口移動(1) であった。1960年代、中卒者は「金の卵」として首都圏において生産・サービスの即戦力としてもてはやされた。その就職活動は中学校・都市と地方の公共職業安定所が一体となって代行し、人数がまとまれば集団就職列車が運転された。集団就職列車の実態については浅野明彦の近著 (2)が明らかにしている。が、帰省の手段としての夜行急行の記述については物足りないものがあるので、本稿で若干の事項について付加しておきたい。また、農閑期の出稼ぎ(集団就職者の親の世代)者の帰省も含めて考えるべきであろう。

 現在は、東京から東北地方への鉄道アクセスとしては東北・秋田・山形・上越新幹線と、在来線への乗り継ぎが一般的である。1993年のダイヤ改正での衝撃的な話題であった定期夜行急行全廃(上野―青森間での、東北本線を経由する「八甲田」、奥羽本線経由の「津軽」の廃止)以来、間もなく10年が過ぎようとしている。上の二つは当初、多客期は一ヶ月以上もの期間に臨時列車として運転されていたが、徐々に運転期間を減じてゆき、今では影も形もない。残る夜行列車は客車寝台特急の「はくつる」と「あけぼの」のみである。最多客期とて、「はくつる81・82号」が寝台電車583系で運転されるのみで、これも今年12月の東北新幹線の八戸延伸で廃止されるとの見方が濃厚である。
 だがこの現状は、利用者に多様な選択肢を提供するという観点からは正しいであろうか。新幹線からの乗り継ぎは確かに速い。東京―盛岡では速達「はつかり」でも6時間かかったが、現在は速達「やまびこ」で2時間半弱である。が、新幹線特急料金は5650円 (3)である。
更に問題は夜行列車である。寝台特急では開放B寝台・ソロ料金6300円+特急料金が運賃に付加(4) される。これは決して安いものではない。鉄道の普通運賃に相当する高速バス(5)の運賃には圧倒的に価格面で遜色がある。JR化後の長期低落状況は打破できそうにない。しかし急行の自由席料金は201キロ以上1260円であり、これならば何とか高速バスに対抗が可能である。勿論旧態歴然としたボックスシートではなく、3列の高速バスと同等の設備 (6)としてだが。また、東北本線盛岡以南・羽越本線沿線など、寝台特急化によるスピードアップで夜行列車の有効時間帯から外れた地域 (7)にも救済が出来る。
また、今回の「波動輸送」というテーマに照らしても、鉄道は夜行バスに対しても優位に立っている。高速バスの経費の大半は運転手の人件費であり、1台の定員が決まっている以上、増車による経費逓減は見込みがたい。しかし鉄道の場合は編成増強(8) や増発によって旅客一人あたりの経費逓減が可能である。
 
1. いくつかの予備知識

・戦後、第一次産業から第二次産業への労働力移動、即ち多くは太平洋ベルト地帯への若年層の人口移動が起こり、帰省輸送が本格化した時代、道路や飛行機が未発達で、鉄道がほぼ唯一の帰省手段だった時代、言い換えれば国鉄の長距離輸送が頂点に達した時代の状況は現在からは想像しがたいものがある。いくつかのキーワードから当時に迫ってみよう。

   発駅着席券
「交通公社の時刻表」1970年8月号(9)の「国鉄の営業案内」(いわゆるピンクのページ)410頁には、寝台券・指定券の説明に続いて

9.発駅着席券∕お盆や正月のとくに混雑する時期などに安心して座席が確保できるように発駅着席券(50円)を発売します。∕発駅着席券を発売する列車、期間、発売ヶ所などは、そのつど、駅、営業所、時刻表、車内吊りなどでご案内します

とある。多客期の上野駅、上りの途中駅の各列車を待つ列が尋常でないものとなり、着席整理券として発行するようになったものである。巻頭の「夏の臨時列車増発のお知らせ」では、「42万枚」の発売が記され、「発駅着席券を発行する列車」として東京地区(10)・中部地区・関西地区・中国地区・四国地区・九州地区・新潟地区・東北地区に分けて各列車が掲載されている。問題の東京地区・東北地区で、下りは上野駅発「8月11日から8月14日までの毎日、午前10時までに発車する東北・奥羽・磐越西・常磐・上越・信越線列車及び8月11日から13日までの毎日、午後7時以降に発車する東北・常磐・上越・信越線の夜行列車」・品川駅(11)は「8月11日から13日までの毎日、奥羽・磐越西線の夜行列車」が、上りは青森(12)・盛岡から大館・湯沢・米沢レベルの駅まで割り振られている。発売箇所は7月中が都内の主要駅と交通公社営業所で、8月1日からは上野駅(13)(全て )と品川駅(奥羽・磐越西線)である。
今から考えれば、指定券で一本化するべきであろうが、当時のマルスの能力の限界、あくまで当日に上野駅ホームに列をつくことの代わりの整理券として考えればうなずける。

   出世列車
集団就職などで東京に出た者が故郷に錦を飾るには、帰ってくる列車と車両が問題であった。特に「津軽」は奥羽北線沿線から長い間唯一の上野直通急行であったから、座席車主体ながらA・B寝台・グリーン車を長く連結していた。が、全ての人が成功して故郷に帰れるわけではない(14) 。鈍行で帰らねばならない者もいたろうし、帰ることが出来なかったものもいたはずである。秋田出身の知人なども「残酷な呼称だ。」と強調していた。

   わこうど号(15)
勤労青少年の帰省のための全席指定の臨時列車で、1972年12月号の時刻表によると指定券を特別に1ヶ月前から発売した。当時の指定券発売は7日前からであった。東京・大阪などの他に刈谷・岐阜・四日市など大工場のある都市にも設定されている。「八甲田」「津軽」「蔵王」などの臨時列車が「わこうど蔵王」などに改称された。最寄り駅から乗れるよう、有効時間帯の停車駅はきめ細かくあり、下りは夜行、上りには昼行(中距離)・夜行(長距離)だった。「シュプール」などと同じで、夜行明けで出勤するのは辛いからだろう。

   グリーン車
等級制廃止により、この頃が最も割安。目ぼしい急行には2両(16)も連結され、電車・気動車の冷房化も完了、夜行客車急行にも冷房化されたスロ54やスロ62(17)が多く連結されていた。ボックスシートの急行普通車との居住性の差は歴然とし、利用は大衆化しつつあった。が1950年代の特ロから改良のない設備、1970年代後半の相次ぐ値上げで客は離れていった。

   フルセット急行・輸送力列車・寝台専用列車
本来、1950年代からの歴史を持つ急行は、AB寝台(18)・グリーン車・食堂車・普通車指定席・自由席と、多様な編成を提供するフルセット急行であった。が、国鉄は1960年代以降、客層の分離と運用の効率化のために夜行急行に対して、寝台専用列車(19)と輸送力列車(普通座席車中心)に分割を図った。本稿の範囲では「北星」と「いわて4号」などの関係がこれに当たる。とはいえ、「津軽」や「鳥海」では東北新幹線開業までフルセット急行を維持した。寝台専用列車は多くはブルートレインに格上げされた。

 以下ではかつての東北方面への定期・臨時を含めた夜行急行などの実態について記述する。が、定期の1列車ごとの現在までの変遷を書くのは煩瑣であり、予定臨のスジの変遷などには不明な点も多いことから、私見による最盛期 (20)についてその時の断面を書きたい。



(1)この現象について最も体系的に、社会科学的視点で調査した著作に加瀬和俊『集団就職の時代』青木書店・1997がある。
(2)『昭和を走った列車物語』JTBキャンブックス・2001の第11話「集団就職列車」
(3)勿論、各種の割引きっぷ(たび割セブン・こまち回数券・○×往復きっぷなど)はあるが、利用の柔軟性・多客期の使用などに難があり、また購入する際に客側に知識が必要である。
(4)夙に寺本光照も『夜行列車はどうなっている』(中央書院)で寝台列車という料金カテゴリーの新設を主張している。
(5)青森・弘前・八戸・盛岡・宮古・一関・釜石・水沢・仙台・大館・秋田・角館・横手・鶴岡・羽後本荘・新庄・山形などに運転されている。
(6)「あかつき」レガートシートほどでなくとも、国鉄時代のグリーン車レベルの165系ムーンライト車でもよい。
(7)本文に見るように、1970年段階では福島・会津若松・仙台・山形志向の夜行列車も多かった。
(8)東北の幹線では13連くらいまで対応している。
(9) 『時刻表復刻版 戦後編3』(JTB・2000)に収録された1967年9月号(まだB6版)には記述がない。恐らくこれ以後に作られた制度と見られる。
(10)といっても、既に西行きは新幹線が柱になり、「ひかり」編成は16連化され、規格化されたダイヤで十分な輸送力が確保されているため、東北・新潟方面しか発売されない。
(11)臨時列車の運転などで頭端式の上野駅の線路容量が限界に達するため、奥羽・磐越に支線の定期・臨時急行は品川駅の臨時ホームから発着し、山手貨物線を経由して赤羽に出るようにされた。が不評のため、1972年頃に中止された。
(12)上野行き9列車も設定されており、これは連絡船からの乗り換えが考慮されているのだろうか。それならば、北海道内でなく、青森駅だけで発売しているのは奇妙である。或いは青森県内の人が東京に戻る際に、乗り継ぎ客と対抗せずに座れるようにする措置だろうか。
(13)一部の列車が品川駅発になっていることを知らない旅客のための措置であると推察され、その際に品川発であることを確認してもらうという配慮であろう。
(14)例えば、映画『男はつらいよ 奮闘篇』では、榊原るみの演じる自閉症の少女が鯵ヶ沢から都会に出て、人に騙されたりするのを寅次郎が助ける話である。
(15)以下の記述は浅野明彦の著書に多く拠っている。
(16)急行には、自由席グリーンと指定席グリーンの双方を付けるという事情もあった。
(17)大正期の木造客車の台車・台枠を流用した鋼体化車オハ61にシートピッチ1270mmでリクライニングシートを取り付けたオロ61を低屋根・AU13による冷房化を施したもの。
(18)等級制廃止までは1等A(旧一等・ナロネ20・22など冷房付き個室)・B(マロネ41・オロネ10など冷房付き開放)・C(非冷房)・2等寝台(勿論、非冷房)の区別で寝台料金に格差あり。
(19)寝台専用列車は、少数の指定席車を連結することもあった。
(20)特急中心史観では1975~78年(この改正でスピードダウン)が最盛期であろう。が、この時期には急行は最早、上野―仙台を5時間以内で結んでいないし、特急への旅客の移動が進んだためか、12・14系使用列車が増え、旧型客車による臨時急行も少ない。

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小田急電鉄が東名高速と接続特急を運転 [鉄道]

小田急電鉄は4月1日、秦野~東海大学前間の新駅建設と、パークアンドライド形式の特急列車運行の計画概要を発表した。

同社の発表によれば、同社小田急線の秦野駅と東海大学前駅のほぼ中間の、東名高速道路との交差地点付近に1000台規模の駐車場を確保した新駅を2012年度をめどに開業し、新宿駅と小田原・箱根湯本の間を結ぶ特急「ロマンスカー」を停車させる計画だ。当面は特急「さがみ」を新駅に停車させ、「ホームウェイ」を新駅まで延長運転する予定だが、利用状況を見て新宿駅と新駅をダイレクトに結ぶ専用特急も運転される模様だ。所要時間は、新駅から新宿まで1時間以内になるという。
近年、少子高齢化の進展で、首都圏の大手私鉄の沿線の通勤通学需要は減少傾向にあり、沿線外の新たな顧客・需要獲得に向けた経営戦略、ダイヤ改正の動きが進んでいる。東急東横線の特急運転や東武日光線とJR東日本の直通特急の運転が好例だ。
今回の小田急の計画が狙うのは、高速無料化・上限料金制の導入によって増加する首都圏への自家用車需要である。具体的には静岡・中京方面から東京への行楽・買い物客を取り込もうとの計画である。
同社の車多企画室長は計画の意図をこう語る。
「2012年度には第二東名高速が御殿場~三ヶ日の区間で部分開通する予定で、東海道新幹線からの旅客転移が予想されます。高速道路のETC割引によって多くの行楽客が長距離の移動でマイカーの移動が経済的で快適であることに気付いたのです。土日祝日の高速1000円で渋滞のイメージばかりがマスコミの報道で注目されていますが、多くの渋滞は首都圏近郊の一部の区間のみで起こっており、静岡県内まで渋滞するのは夏休み、連休など特殊な時期だけです。6月からは従来のETC割引が廃止され、上限制に一本化される見込みです。そうすれば移動の分散が進み、首都圏近郊以外の高速道路の渋滞はかなり解消されます」
「しかしながら、なぜ地方から東京にマイカーで来るという需要が少ないのでしょうか。それは首都圏近郊の渋滞と、都心の駐車場の問題です。今回の新駅と特急のパークアンドライドはそれらの問題をすべて解消します。」

東海道新幹線に比べて、最高100キロ程度の高速道路では、所要時間の不利はないのだろうか。鉄道と他の交通手段の競争に詳しい鉄道アナリストの川島令三さんはこう語る。
「マイカーのメリットはドアツゥードアの移動が可能な点があり、乗換などの時間的ロス、手間がないという点に集約されます。「のぞみ」で東京駅から名古屋駅までの移動時間は1時間43分ですが、名古屋駅までのアクセス時間が馬鹿になりません。豊田市からは1時間程度がかかります。これに対して豊田市から御殿場までの高速道路の距離は200キロ程度で、渋滞がなければ2時間程度で到着します。小田急の乗車時間は1時間程度で、新宿までのアクセス時間は新幹線とあまり変わりません」
「お父さんが仕事で出張する時と家族の移動は全く違います。乗換は子供つれでは大変ですし、地方都市や中京圏の人たちは電車での移動に慣れていません。」
「家族連れの移動を鉄道に引き戻すには、魅力的な割引運賃と、多様な車内サービスでクルマに勝つ必要があります。国鉄の分割民営化以降、JR東海は初めはサービスの改善に積極的に取り組みました。100系新幹線の2階だてグリーン車や個室、食堂車などにあこがれた人も多いでしょう。」
「ですが、東阪間の出張客の需要ばかりに目が向き、スピードだけの「のぞみ」に運行を特化し、今や残っている付加サービスはオーディオサービスくらいです。それさえグルーン車でもイヤホンの購入か持参が必要ですし、普通車だとFMラジオが必要です。飛行機なら普通席でも飲み物は無料ですし、ヘッドホンも無料で配られます。クルマなら渋滞の中でも車内で自由に音楽やDVDを楽しめます。新幹線とは快適性が比較になりません」 
「小田急のブランド力というのは大したもので、ロマンスカーと言えば私鉄特急の代名詞です。子どもが乗りたがる乗り物として新幹線と並ぶ存在です。マイカー客を取り込む力があります。」

小田急は初期の顧客獲得手段として、神奈川県以外の旅客の駐車場無料サービス、小田急百貨店での一定以上の金額の買い物で往復特急料金・運賃無料などの案が上がっているようだ。
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JR四国が契約社員を車掌に採用 [鉄道]

旧国鉄の従業員の年齢分布がいかに異常であるかと考えさせられる。全社で300人しか車掌がいないというのも驚きだが、それだけワンマン列車だらけだということだろう。
年配の車掌が多い理由は二つ考えられる。一つは特急列車の接客のために敢えてベテラン社員を配置しているという可能性。もう一つは組合問題で年配の社員は運転手や駅員などへの配置転換を拒否していて、若い社員を人事的に流動化させているという可能性である。
業態が変わったりして、もとは必要だった職種の人たちが従来の人数は必要なくなるということはどの会社でもあることだろう。その場合は中高年の社員を転勤、職種転換させるのではなく、若い社員にしわよせさせるということだろうか。

だが契約社員の給与は年収200万円に満たないようだ。JR四国の未来のなさを象徴するような人事制度だ。まあ経営だけを考えるなら、近郊輸送とバス会社、関連事業に特化した方がましらしい。


(以下引用)
JR四国(高松市)は25日、将来の大量退職に備え、車掌に代わって乗務する契約社員の客室乗務員を導入すると発表した。本格的な車掌業務を契約社員が担当するのは、JR各社で初めてという。同社は「経費節減にもなる」としている。
導入は3月13日以降を予定。午前8時~午後8時台の特急(高松-宇多津)と快速(高松-児島)が対象となる。通常は車掌が行う車内での放送や改札、切符販売、ドア開閉作業など主要な業務を行う。
同社では、2009年度末に在籍する約300人の車掌のうち、23年度末までに約170人が退職年齢になるという。客室乗務員の採用は3年で20人程度を予定している。同社の松田清宏社長は「接客に興味がある人に来てほしい。将来的に導入する地域の拡大も考えている」としている。(共同)

◎JR四国 http://www.jr-shikoku.co.jp/

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2010012501000758.html
【鉄道】JR四国、車掌業務担当の契約社員を導入--経費節減、JR各社で初めて [01/25]
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1264413442/


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中央アフリカの鉄道 [鉄道]

(以下はクラレンス・B・ディビス他
『鉄路17万マイルの興亡 鉄道から見た帝国主義』日本経済評論社・1996

の内容メモ)

第3章 中央アフリカにおける鉄道政治と帝国主義 1889~1953

参考人名
(主に『増補版 岩波西洋人名辞典』によって調査)

日本語では本書にしか情報がない人物も多く、貴重な情報源。ヨーロッパの小国やアフリカ・中東の政治家を調べるには最高の出来である。(誰得感も多いけど)

クルーガー:(1825~1904)
 ケープ植民地のオランダ系家族の出。幼時にトランスバールに移住。一貫して反英政策を遂行。トランスバール共和国大統領(1883~1900)を務めるが、南アフリカ戦争を招いて辞職。スイスで歿。

スマッツ:南アフリカの政治家、軍人(1870~1950)
ケープタウン生まれ。ケンブリッジに学び、生地で弁護士に。政治に関心を持ち、トランスバールに移住、クルーガ-の代理人として対英交渉に当たる(1898)。南アフリカ戦争で連邦軍最高司令官。講和会議を主導。戦後は対英協力政策を推進、南アフリカ連邦樹立後は国防相。第一次世界大戦では帝国臨時閣僚。国際連盟設立に尽力。帰国後連邦首相(1919~1924)。ドイツへの中立政策を唱えるヘルツォークに代わって第二次世界大戦中も首相(1939~1948)。

ソールズベリー卿:イギリス首相(1830~1903)
 オックスフォード大卒(1849)。保守党員として下院に入り(1853)、グラッドストーン内閣などの自由主義政策を批判。ダービ内閣でインド事務相(1866)。オックスフォード大総長(1869)。ディズレーリ内閣でも入閣し、ベルリン会議次席代表。保守党首として三度首相に(1885~86、86~92、95~1902)。概ね外相を兼ねる。アフリカ分割を完了し、末期には日英同盟で名誉ある孤立を放棄。

レオポルト二世:ベルギー王(1835~1909、在位1865~1909)
ヴィクトリア女王の従弟。普仏戦争で中立を守った後、列強の帝国主義的植民政策と国内産業発展に刺激されてアフリカに関心を持ち、万国アフリカ協会を設立(1876)。スタンリーのコンゴ探検(1879~84)を援助。ベルリン会議(1885)でコンゴの主権を認められる。コンゴ自由国を建設し、後にベルギーに併合(1908)。


○ 中央アフリカの鉄道の三段階の発展

1、南アフリカから北に伸びる線路を最終的にカイロに繋ごうとする、セシル・ローズ他の英帝国拡張論者の想像力に端を発した帝国主義戦略の一環として建設。ケープ植民地をプーア共和国より優位に立たせる手段。レオポルト2世領土拡張戦略とドイツのアフリカ横断計画との競合。
2、戦間期。帝国戦略よりは、既存領土の経済発展に左右される。植民地国家と英国南アフリカ会社など国際資本、帝国政府の鉄道支配を巡る闘争。
3、第二次世界大戦後。南ローデシア政府の鉄道獲得から、中央アフリカ連邦の成立へ。

○ 第1段階

・19世紀後半の鉱物資源の獲得で、南アフリカ植民地が航路確保以上の意味を持つようになる。
1889 セシル・ローズの英国南アフリカ会社設立
→トランスバールとオレンジ自由国(前章参照)よりケープ植民地を優位に立たせるため、北進する鉄道の建設。
→資源に乏しく帝国の負担となっているベチュアナランドを通る鉄道建設の代償として帝国政府は特許状を交付。フライブルク、マフェキングまでの土地を贈与。
→ケープ植民地にその土地の三分の二を受け取らせて、フライブルクまでの鉄道建設の資金を供与させるが、恐慌による資金難で建設停滞。

1897、ベチュアナランド線がウムタリへ。
1898、南ローデシアから南方、東方の港へ全通
1899、マショナランド鉄道によって、狭軌(ナローゲージ?)のベイラ鉄道から延長する形でソールズベリーまで全通
1902、ケープタウンからベイラまで全通

・ケープ、カイロ構想のためのベルギー国王、ドイツ帝国との交渉。
→当初のタンガニーカ湖付近経由から、炭層の発見されたワンキー経由に計画を変更。
 (経済的理由が政治的配慮に優先する例)
1899、ロバート、ウィリアムズの探検隊が北ローデシアとコンゴ自由国で銅鉱脈を発見  →700マイルの距離にあるローデシア鉄道に注目
→当初交渉は難航するが、マショナランド鉄道の経営難による資金不足を補うために、カタンガ鉱山からの鉱産物輸送にローデシア鉄道側が着目。
1908 三者合意
1910 カタンガの新行政府エリザベスヒルまで鉄道全通
1913 鉱山の操業が始まり、東岸のベイラまで輸送される。

○ 第二段階

・従来のローデシア(ローズの国)は英国南アフリカ会社の所有
・鉄道会社と鉱山会社の資金的相互依存関係による鉱業優先の輸送(全体の60%)
→鉱業と関係ない白人移民の増加で特許会社と確執。
→植民省も会社を警戒視するように。
・豊富な地下資源の開発のために、会社と帝国の利益を守りつつ、植民者を懐柔する方針
・アフリカーナが発言力を有した形での南アフリカ連邦の成立

1923 南アフリカ会社は行政経費の赤字に対して375万ポンドの補償を受けて、南北ローデシアの土地所有権を放棄。しかし鉱山利権は引き続き保有。
   南ローデシア(ジンバブエ)は自治政府、北ローデシア(ザンビア)は帝国直轄領に。

 ● ベンゲラ鉄道の建設

1926 ポルトガル領を通るベンゲラ鉄道の建設にイギリス政府が支援
・いずれにせよカタンガからアフリカ西岸に出る鉄道は建設されるものであり、イギリスの影響下に置いた方が好都合。
・現状では、カタンガ鉱山からの鉱石はローデシア経由で東岸のベイラに輸送されているのに、ポルトガル領を通る代替ルートの建設は料金競争の面でローデシア鉄道=南アフリカ会社の経営にとって重大な影響を与える。
→特許会社と、スマッツ元帥の南アフリカ政府は猛反対。スマッツは連邦をローデシアに拡大し、ローデシア鉄道も南アフリカ国有鉄道に統合してカタンガの鉱物輸送を握ることも狙う。
→1926年以降は南ローデシア自治政府も反対の立場に
1926、コグラン率いる南ローデシア政府は鉄道の管理権を獲得
1933 世界恐慌の影響下で資金不足に陥ったローデシア鉄道会社は、鉱山利権を南ローデシア政府に売却

第三段階 鉄道と中央アフリカ連邦

・鉄道支配、つまり地域の鉱物生産の支配が、領土合併のための帝国政府の植民地政府の抵抗を切り崩す梃子になる。
(連邦の成立を全てを鉄道と鉱山の問題に単純化は出来ないが。)
・中央アフリカと帝国全体との関係はカナダに似ている。

第二次世界大戦
→鉱業生産の拡大、輸送の増加、老朽化した設備の補充などの問題から鉄道の国有化が緊急の課題に

1947 南ローデシア政府がローデシア鉄道の資本を買収することに、帝国政府が合意し、3200万ポンドを借り入れ。
・イギリス経済が戦後の苦境にある中で、ポンド=スターリング圏のドル収支の改善のためには、帝国内の銅・クロムなどの生産拡大が必要な状況
1953 中央アフリカ連合が成立
1963 北ローデシアとニャサランド(現マラウイ)の反対で連邦解散


2004年 欧州の高速列車事情2 [鉄道]

(再録。新線開業が相次ぐ現在の欧州の高速鉄道の現状からは隔たりがあります)

2、ドイツのICE

2.1.ICEの建設過程

 ドイツも鉄道高速化では先駆者である。蒸気機関車の時代から、幹線では軽く表定100キロを超えていた上に、1930年代には線形のいいベルリン・ハンブルク間で最高速度160キロ(!)のディーゼルカーFlying Hamburgerを運転している。
 西ドイツ国鉄(DB) は1970年代から、定間隔・頻繁運転のICの運行を推進し、絶妙な接続・乗換えによる網の目のような優等列車の運転を実現した。当初はTEEの国内版として1等のみの運転であったが、利用が低迷したため2等車も連結するようになって、すっかり西ドイツの国民に定着した。イタリアやフランスでは高速列車は従来の急行・特急 から区別された存在として、予約・特別料金が必要となっているが、ドイツのICEは基本的に従来のICの延長的な存在であり、鉄道パスの利用者も空席に座ることができる。しかし近年では2等車の混雑が激しくなっていることから、混雑列車の予約は推奨されている。
 新線区間について述べる。最初に2つの路線の建設が1976年に始まった。一つ目は東ドイツとの国境近くの山岳区間を南北にショートカットするために計画されたのがハノーバー・フルダ・ビュルツブルク間(HW線と呼ばれる)である。1988年から91年にかけて段階的に327キロが開通した。もう一つがマンハイム・シュトットガルト間(MS線)であり、1991年に完成した。いずれとも貨物列車の通過も考慮してゆったりした勾配を採用したためにトンネル区間が増え、建設費が高騰した。曲線半径も7100mとかなり余裕がある。
 次に統一ドイツの首都のベルリン・ハノーバー間に新線が建設され、1998年に完成した。近年に開通したものながら日中1時間3本が運転され、最も盛況なのがフランクフルト・ケルン間のライン・マイン線であり、平行して貨物中心のライン東岸線があることから貨物列車の通過を考える必要がなく、建設費の軽減のために急勾配を許容した規格となった。動力分散式のICE3のみが運用されている。

2.2.ICEの路線網

 ICEの運転区間は新線区間だけではなく、広く在来線に乗り入れ、補完関係にあるICと並んでドイツの中小都市を網の目のようにはりめぐらされており、運転系統はかなり複雑である。それだけに、表定速度は新線区間以外、それほどでなく、線形のいいHW線で表定177キロとなっても、ミュンヘン・ハンブルク807キロで5時間59分もかかり、表定速度は134キロと振るわない。ICEの真骨頂はTGVなら見捨てるような地方都市間の需要を小まめに拾っていくことであり、パリと地方都市の2点間輸送1本のTGVとは運転形態そのものが違う。
当初から運転されていたのは二区間である。一つはハンブルク・ハノーバー・フルダ・ビュルツブルク・ミュンヘンで今も1時間に1本が運転されている。もう一つがハンブルク・ハノーバー・フルダ・フランクフルト・マンハイム・ミュンヘンと遠回りする系統である。後者は通しの利用が考えがたいこともあり、ハンブルク・ハノーバー・フルダ・フランクフルト・バーゼルの系統となるか、シュトットガルト止まりとなった。代わってケルン・フランクフルト空港・マンハイム・ミュンヘン系統などが登場し、マンハイムで多くは同ホーム乗り換えが可能である。この他にも、バーゼル方面に向かうもの、フランクフルト中央駅どまりのものなど多様であるが、乗り換えパターンを理解すれば、便利なようにダイヤが組まれている。
ベルリンがらみも多様である。ハノーバー方面の新線には1時間に1本のハノーバー・ハム・ケルン と、同じく1時間1本のフランクフルト・フルダ・ベルリンの系統がある。また新線区間を通らないミュンヘン・ニュールンブルク・ライプチッヒ・ベルリン系統があり、運用の都合か多くはハンブルクまで直通運転している。
また近年ではフランクフルト・フルダ・ライプチッヒ・ドレスデンで振子式のICE-Tを運転し、カーブの多い在来線のスピードアップを果たした。

2.3.ICEの車両

 車両には動力集中方式のICE1、ICE2、動力分散式のICE3、振り子式のICET の4種類がある。ICE1はTGVに似た両端電動車方式で乗客の多寡に対応して10~16両編成となる。1両だけ背が高い立派な食堂車とカフェテリア車が付いている。ICE2は末端区間での分割運転を想定したもので片側が電動車のプッシュプル方式であるが、電動車が後押しする形態になるときは脱線防止のために最高速度は200キロに制限される。
ICE3は発想をガラリと変え、ライン・マイン線の急勾配に対応するために、日本の新幹線と同じ動力分散式となった。ICE2に引き続き併結運転が可能である。当然、先頭車にも座席ができ、展望車となっている。JR九州の885系があまりに似ていることが話題となった。8両編成が基本だが適宜減車される。当初はハンブルク乗り入れなどにも暫定投入されていたが、2002年ケルン・フランクフルト間のライン・マイン線の開業に伴い、そちらに集中投入されている。8両編成中、1等車3両、食堂車1両の豪華な編成で運転されていたが、2等車の混雑が激化したため、シートピッチを詰める(97cm→92cm)とともに食堂車を廃止してカフェテリア車とし、1等車も2両に減車された。
ICE-TはICE3に外見がよく似ているが振り子式である。1999年から運転を開始し、スイス乗り入れのチューリッヒ・シュトットガルト間とフランクフルト・フルダ・ライプッチヒ・ドレスデン・ドレスデン間に主として使用されている。5両編成と7両編成がある。

3、イタリアのESスター

 かつてはストライキ、遅延の代名詞のような感のあるイタリア国鉄であるが、今ではシチリア直通の長距離列車を除いては、他のヨーロッパ諸国とあまり変わらない定時運行が実現している。そもそもイタリアという国家自身が1990年代にEU加盟のために、大改革を実施して財政赤字から脱却し、1990年代の日本の改革路線を数倍したような大改革を実施して、従来のキリスト教民主党政権の基盤をズタズタにしたことを思えば、鉄道の大改革もそれほど異例なことではない。
 1970年からダラダラとイタリア的に建設され、部分開業を繰り返してきたフィレンツェ・ローマ間の高速新線(Direttisima)も1992年に全線が開通し、1994年段階では強制振り子式のETR450が最高速度250キロ運転で12往復、IC・ECが200キロ運転で24往復運転されていた。
 本格的な高速運転のために満を持して登場した、300キロ運転が可能なESスター ・ETR500は1996年に本格的な運行を開始し、イタリア国鉄の改革の象徴ともいっていい存在である。当初はミラノ・ヴェネツィア―ローマの中央幹線に投入されたが、今では高速新線区間と関係なく、イタリア国鉄の最上位の種別 として、ミラノ―ボローニャ―ブリンディッシ-バリの東海岸線やヴェネツィア―ミラノ―トリノなど、在来線区間の単独運用にも投入されている。なお、ETR500が登場するまで幹線の最上位列車に使用され、主力だった振り子式電車のETR450(1988年登場)・460(1995)は、引き続きローマ・アンコナ、ローマ・ナポリ・ターラントなどの山岳路線に投入され、同じくESスターと呼ばれている。
 確かにフィレンツェ・ローマ間では300キロ運転を開始したが、アペニン山脈越えの山岳区間では従来の振り子車よりスピードダウンしてしまっており、ミラノまでトータルで4時間という壁を越えていない。そもそもETR450でも最速列車はローマ・フィレンツェを1時間35分、全線を4時間で走っていた のである。TGVの速さを知った上では264キロを1時間35分、評定速度166キロと言うのは、300キロ運転の列車として物足りない。恐らく、多くの余裕時分を取っているものと考えられる。経験的にも途中までは正確に走っていてもローマ・テルミニ駅の進入待ちで多くは5分ほど待たされる印象がある。殆どの列車が集中する中央駅の配線改良の必要があろう。
1等車の車内では航空機なみにドリンクのサービスも行われていた(2002年9月)が、しかし炭酸飲料ばかりで、風格に欠ける。これくらいならやらない方がましというものだった。どうやらなくなったようである。TGVより後に出たにしては、空間効率は悪化しており、前の席のプラスチックの枠が当たって窮屈な印象を受ける。快適さから言えば従来のICの一等車のコンパートメントの方が明らかに上である。
ダイヤは概ねボローニャ・ローマでESスターが1時間に2本運転されている。フィレンツェ・ローマはノンストップが標準だが、朝夕にはアレッツォに停車するものもある。ICはランダムに割り込むが、ESスターに乗客を誘導するためか、かつての東北本線の急行のようにスピードダウンしており、フィレンツェまで2時間以上を要している。

(追記 現在ではミラノ~ボローニャの高速新線が開業し、ミラノ~ローマは多数のAVEによって結ばれている。朝夕のノンストップ便で3時間半、普通便で4時間となった。)

2004年 欧州の高速列車事情1 [鉄道]

0、はじめに
 
東海道新幹線が開通してから40年経ち、最高速度200キロを超える初の鉄道システムとして成功し、世界の鉄道の高速化に大きな刺激を与えた。それまでは鉄道は長距離の移動の道具としては将来性が危惧されており、航空機と自動車に移行していくものと考えられていたのである。
特に航空機との競争は看過すべからざる問題である。最近まで新幹線の独壇場のように思われていた東京―大阪でも、新幹線開通時点で激化しており、1日40往復以上が運航され、ヘビーユーザーから乗り換えが進んでいた。以後ジェット化による輸送力向上を経て、1976年のエアバス規制撤廃と東京―大阪便の大減便 (1)まで、拮抗状態が続く。
ヨーロッパ諸国でも航空機の攻勢に対して、手をこまねいていた。北欧に向かう「北急行」、「オリエント急行」など、往年の名列車は上級クラスの乗客を失っていき、運転区間の短縮、出稼ぎ労働者用の2等中心の編成への移行などで、かつての栄光を失っていった。
西ヨーロッパ各国の国鉄は何とかして、ヨーロッパ内を出張で移動するビジネス客を囲いこむべく、高度に連携して、オール1等の豪華列車 TEE(Trans European Express)(2)を西ヨーロッパ一円に運行した。多くの列車は朝夕の時間帯のみに運行され、ビジネスマンの出張に利用できるように配慮した。固定窓による空調された車内 (3)などは、以降の優等列車の標準となった。食堂車の連結は勿論のこと、「ル・ミストラル」ではブランド品の販売店、理髪店などの多彩なサービス(4) も登場した。一等車の中でも乗客の好みに合わせてコンパートメント・開放室の双方のタイプが多くは連結された。
しかし、B727、B737、DC9など第二世代のターボファン方式のジェット機が登場するに至り、中短距離路線でも高効率な頻繁運航(5) が可能となり、ヨーロッパの主要都市は1時間程度の間隔の航空路で結ばれるようになった。日程の自由度(6) の点でも、本数の少ないTEEはビジネス需要から見放され、利用は低迷(7) した。
また、ヨーロッパでは、ナチス時代から整備された速度無制限のアウトバーンを持つドイツを中心として、高速道路での巡航速度が高く(8) 、表定150キロ程度での移動も可能である。表定100キロ程度では、とても車に対抗できないのである。また、急ぐ車は最優先に通すという交通マナーが確立し、高速で走る高級車は設計時点から最善に安全に配慮するとともに、運転者はますます正確な運転に徹するべきである(Noblessse Oblege)という文化が形成されているのである。
鉄道は新たな手に出る必要があった。

なお、本稿においては高速列車の定義として新幹線のような専用軌道に拘らず、在来線利用を含めて最高160キロを大きく超える列車(9) と定義しておきたい。ただ、カーブの高速化のために振り子式を採用した列車も多少取り上げたい。
単なる高速運転ならば1970年代のTEEの一部でも、最高速度200キロ、表定速度150キロ程度を達成していた。が、多くは1日数本の運行に限られ、飛行機からビジネス客を奪うことには限界(注6参照)があった。また1等のみの運行も利用しにくさを高めてしまった。現代の高速列車の条件として、せいぜい1~2時間程度の定間隔で運行されることもより厳しい条件として入れる必要もあるだろう。日本のL特急やヨーロッパのICの発想である。

これから高速列車を見る上で注意しておかねばならないのは、鉄道というシステムは社会・国家の制度、習慣などに強く規制されるものであり、歴史的経緯を無視することはできないということである。従来の技術水準を遥かに超えるシステムは、トラブルなどが頻発しやすく、安定した運行は困難となる。
色々な意味で日本の新幹線を超える要素をも持つに至ったヨーロッパ各国の高速列車も、ヨーロッパの鉄道がイベリア半島、ロシアを除いて標準軌という共通規格でレールをつないでいる中にあって、相対的に各国の枠内で運行されるものが多い。TGVなどはスイスやイタリアに乗り入れているが、在来線経由での直通運転にすぎず、専用軌道で高速運転を行っているわけではない。スウェーデンのX2000やLINXも隣国への乗り入れ区間では、高速運転を行っていない。高速列車の純粋な国際運行は、タリス(フランス―ベルギー)、ユーロスター(パリ―ロンドン、ブリュッセル―ロンドン)にまだ限られているといっていい。これからは増えるという見通しはあるが、ヨーロッパも広く、最高350キロ程度の高速運転を行っても、1000キロ程度かそれを超える距離での運行は、航空機との競合に勝つことが難しいように思われる。
高速列車の運転形態は、国情を十分に反映している。近代の合理精神の権化のように、パリへの中央集権体制を取るフランスではTGV網はパリから放射状に3方向に伸びているのに対し、近代国民国家の成立が遅れ、分権的な国家体制のドイツでは、ICEも旧西ドイツを中心として網の目のように(10) 列車が運行されている。

本稿では出来るだけ、各国の高速列車の沿革(11) と時刻表、その他の基礎情報と共に、実際に乗車した経験を下に叙述したい。なお時刻表としては、日本語版Thomas Cook2004年秋冬版を使用したが、季節による本数の増減については了承いただきたい。スペインのAVEとイギリスのHSTには乗車経験がなく、詳しく触れられないことを断っておく。

表:各国の高速列車の新線の路線規格一覧
路線名 最高速度 電化方式 最小回転半径(12) 最大勾配
TGV南東線(13) 260→300 km 25000V、50Hz 4000(3250)m 35‰
TGV大西洋線 300km 同 4000(3200)m 15(25)
TGV北欧州線 300km 同 6000(4000)m 25
ICE 250()km 15000V 7000(5100)m 12.5
ICE(ライン・マイン線) 300(330)km 同 3350 40
Direttissima(イタリア) 300 直流3000 3000 8.5
東海道新幹線 210→270km 25000 2500 20
山陽新幹線 210→300km 同 4000 15
東北新幹線 210→275km 同 4000 15



1、フランスとTGVベースの諸列車

 フランスはヨーロッパにおける鉄道高速化の先駆者である。記録のための記録という面もあるが、1955年には試験運転で時速331キロ(14)を達成 し、今もTGVで不倒の515.3キロの速度記録 (15)を誇っている。定期列車においても、日本の新幹線に刺激を受け、1967年からパリ―トゥールーズ間のTEE「ル・キャピトル」で200キロ運転を開始し、パリ―ボルドー間の580キロ(!)でノンストップ運転の「アキテーヌ」などが運行されてきた。TGVはその正統的な継承者である。

1.1.TGV南東線

 1980年代初頭に最初に開業したTGV南東線(16) は、日本の新幹線とは全く違った設計思想で話題になった。両端の機関車で8両の客車を挟む動力集中方式、連接式の台車、急勾配を排除せず、トンネルをなくすことで低コストでの建設を実現した線形、在来線とのいくつもの分岐、合流 (17)などである。フランスの国土がなだらかな丘陵の続く地形であったため、急勾配が連続的なものでなく、アップダウンの連続であったため、列車の速度を落とさずに急勾配区間の設定が可能となったのである。また在来線と共通した標準軌の利を生かして、市街地では在来線に乗り入れることで、市街地の新線建設にかかるコストを削減し、末端区間で在来線に乗り入れることで、乗り換え抵抗をなくすことに成功した。
何より最大の衝撃は、1964年の東海道新幹線の開通以来、15年も変わらなかった新幹線の当時の最高速度210キロ(18) を大幅に破る260キロを当初から営業最高速度として採用したことであった。車内に関しても、片方向向きの集団見合い式の座席も、当時集団離反式のリクライニングシートを新車・改造車に採用していた新幹線(19) とよく比較された。
また中間駅の需要を度外視し(沿線に重要都市がなかったことも一因である)、直線状に建設された(ディジョン経由の在来線に比べて84キロも短縮された。)路線には在来線との交差部に小さな3駅が設けられた他はリヨンまでの2点間輸送に特化した路線選定となった。事実、殆どの列車がパリからリヨンまでノンストップで運行されている。
その後南東線は、1983年に最高速度を270キロに向上した。2001年6月にはマルセイユまで延伸開業し、所要時間が4時間20分から3時間に短縮された。フランス国内の最大の航空路であったパリ・マルセイユ線も減便(20) を余儀なくされた。延伸区間の最高速度は300キロである。

南東線の現在のダイヤは区間乗り入れも多く複雑であるが、大略を述べる。
全体として利用者が特定の列車に集中しないよう、地域分離型のダイヤになっており、行き先の多彩さも合わせて、東北新幹線に似たダイヤである。なお曜日により本数に増減があるが、平日の平均的なものをとった。
大体マルセイユまでノンストップの速達列車が毎時20分発でマルセイユまで750キロ (21)を3時間4分で走り、表定速度は247キロ(仮)に達している。新大阪・博多間2時間17分運転 (22)の500系のぞみの表定242キロと世界一を競っている。
南西のニーム方面(モンペリエ、トゥールーズなどに直通運転)が24分発でパリ・ニーム686キロを3時間4分運転である。
また、0分(30分も)にはリヨン行きがあり、ジュネーブ行きが1日7本、シャンベリ経由のアヌシ―行きが5本、グルノーブル行きが6本運転されている。
1~2時間に1本、TGV北線からシャルルドゴール空港経由で乗り入れがある。
南東線の車両には開業以来のTGV-PSEとともに、輸送力増強のために投入された2階建てのTGV-Duplexがある。PSEの中にはイタリア・スイス乗り入れ用の複電源車もある。

1.2.TGV大西洋線

南東線に続いて建設されたのは、フランス南西部のナント、ボルドー方面(途中のクルトランで二方向に分岐する)への大西洋線である。1985年から工事が始まり、1989年には共通部分とナント方面へのフォントネーオーズ・クルトラン・コヌレ間(175.6キロ)、1990年9月にはクルトラン・サンピエールデコール間(86.9キロ)とトゥール迂回線が開通した。ボルドー方面へは、トゥールから先は長い在来線区間が続くが、TEE時代から200キロの高速運転が行われてきた線形良好な区間であり、ポワティエ・ボルドー間(249キロ)の在来線区間を1時間32分(23) で走破し、表定速度は162.3キロと高速である。パリからの表定速度も190キロを超えている。ボルドー方面への延伸計画はあるが、他の計画線よりも優先して急いで新線を建設する必要がないというべきだろう。
車両には大西洋線用のTGV-Aが使用される。PSEから動力車の出力が増強され、12両編成となった。
大西洋線のダイヤはパリ・ボルドー間ノンストップの速達列車が1時間に1本で、570キロを2時間56分で運転。多くの列車はトゥールーズやイルン(スペインとの国境駅)、タルベスなどに乗り入れる。5本が北ヨーロッパ線のリール、ブリュッセルから直通する。殆ど新線区間を走る短距離列車としてはパリ・トゥール間に1時間2本程度が運転され、224キロを1時間4分で走る。ポワチィエなどに停車する各停便が1時間に1本程度。5本が大西洋に近い都市ラロシャテルに乗り入れる。
ナント、レンヌ方面へは在来線に入って、ルマンでさらに2つに別れる。ナントまでの速達便が0分発で1時間に1本、387キロを最速1時間59分で走る。レンヌ方面へは5分発で365キロを最速で2時間3分運転である。双方とも朝夕には増発され、30分間隔になる。

1.3.北ヨーロッパ線とユーロスター

北ヨーロッパ線については、ドーバー海峡をくぐるロンドン行きのユーロスターやベルギーのブリュッセル、さらにはケルンに至るタリスなど国際列車も走り、最も国際的な路線である。
フランス国内区間は1989年から工事が始まり、93年5月にはパリ近郊のゴネスからアラスまで開通し、9月にはリールまで伸びた。パリ・リールは224キロである。ドーバー海峡トンネルの開通に伴い、1994年11月からユーロスターの運転が開始された。ブリュッセル方面とはゆったりした曲線で壮大な立体交差で分かれていく。270キロで走行できるように設計され、速度も殆ど落とさないため、うっかりしていると分岐には気付かないほどである。土地に余裕のあるフランスならではの風景である。

ユーロスターは、当初は本数も少なく、イギリス国内では殆ど第三軌条の在来線 (24)を走るなど、暫定的な印象があったが、今日ではイギリス国内の新線も開通し、すっかりパリ・ロンドン間の移動手段として定着した。とはいえ、ヨーロッパの経済・航空の中心であるロンドンからは多くの航空便が高い割引率 (25)で運航されており、ロンドン・パリに関しては航空便もそれほど本数を減らしていない。ユーロスターにはイギリス側では入出国審査 (26)が必要であり、ロンドン ウォータールー駅 (27)では航空便なみに30分前にチェックインが必要であるなど、飛び乗りのできる鉄道のメリットが減って、航空機に近いシステムをとっているためだろうか。運賃に関しては、建設費を償還するための高額のトンネル通過料を払う必要があり、あまり安くできない事情(28) もあろう。安さよりは時間の正確さで航空機と勝負しようとしている印象があるが、潜在需要の多くを取り逃がしているように思える。
ドーバー海峡トンネルの有効利用のためには、現状のユーロスターの運行区間は航空機との競争力の持てる区間としては限界に近いものがあるが、TGV南東線との直通運転の開始などの更なる需要の拡大を図る必要がるように考えられる。またドイツ・フランスの殆どの都市に対しては夜行列車の有効時間帯であり、寝台列車の設定も考慮すべきであろう。
ユーロスターの車両はさらに長編成となり動力車2両を含む20両固定の堂々たる編成である。2両は軽食堂車である。1等車が中間の6両、2等車が残りの10両である。1等では午後に軽食、夜は何種類かのコースから選べる夕食のサービスがある。プレミアムファーストクラスと呼ばれるサービスもあり、市内から駅までのハイヤーによる送迎、ラウンジの利用 (29)などが可能になっている。1、2等ともに、航空機のように正規普通運賃と割引運賃などの複雑な区分があり、正規運賃は1等で片道40000円程度と高価だが、予約した列車に乗り遅れても無料で後続列車に変更が可能など高いフレキシビリティーを持っている。
ロンドン・パリのユーロスターは1日12本程度が運行され、最速2時間35分で運転されている。近年まで約3時間かかっていたが、イギリス国内の新線区間の開業でスピードアップした。ロンドン・ブリュッセル間は9本である。
パリ・ブリュッセル間のタリスは、日中25・55分発で多くの本数が運転され、313キロを1時間25分で走破している。当然ながら航空便は廃止され、航空会社とのコードシェアが行われている。5本がアムステルダムまで4時間11分の所要時間で運転されているが、在来線で速度が出せていない。6本が3時間54分でドイツのケルンまで運転されている。フランス国内ではパリからリールヨーロッパまで1時間4分、28・58分発の30~60分間隔で、アラスから在来線を走る短距離便が概ね1時間間隔で運転されている。

1.4.TGVの印象

 これまでのTGVは以後も動力集中方式を堅持しているが、いくつかの問題点も生じているように思われる。例えば旅客数の増大によって輸送力が不足し、2編成を併結した20両編成での運行が常態化しているが、パリの始発駅たるリヨン駅などヨーロッパの頭端式では、コンコースと反対側の先頭車に近い車両に行くのが遠いこと、20両編成のうちで、座席数とは関係ない4両が動力車となることの非効率の問題である。また、輸送力を確保するためにシートピッチは詰め気味であり、1等車でも980mmと狭い。874mmと飛行機並のピッチの2等車の窮屈ぶりはJR東日本のE653系などを彷彿とさせる。よくフランス語教師などの盲目的なフランス崇拝者は「2等車でもTGVは新幹線のグリーン車より広く、快適である」というが、いかに先入観に支配されているかが分かる。また航空機と同じ発想なのか、窓割りが座席と一致しておらず、窓なし席 が多数存在している。同じ詰め込み構造なら普通車が2-3列であり、輸送力に効しない動力車のない新幹線の方がましのように思える。ただし、TGVで褒めるべきはインテリアであり、別に金をかけたとも思えないそっけなさながら、安っぽくないモダンさを基調としている。明るい雰囲気の車内が狭さをごまかしているとも言える。


(1)伊丹空港騒音訴訟の原告側の論法では、民間航空の公共性が争点となった。この中では鉄道によって代替が可能な区間の航空路は、有産階級のための非公共的な乗り物であるとの論理が展開された(宮本憲一)。判決では公共性の問題については判断を差し支えたが、JAL・ANAの2社は機材の大型化(727-200・DC8-61→L1011 ・747SR・DC10)を図って、3分の1の13往復に減便した。成田空港が開業する直前で羽田空港の処理能力が逼迫しており、地方便により多くの便数を運航するためにスロットを譲る意味もあったと見られる。
(2)当初は各国の電化方式の差もあり、あえてディーゼルカーで運行されたが、居住性の面で問題があり、順次ヨーロッパ共通規格の客車に置き換えられた。
(3)当時のTEE用の車両は今日でもサービス水準の高さ、高速性能が評価され、ドイツ国鉄では経年40年近い1等車を最高200キロで運転している。
(4)第二世代の客車で採用されたが、利用者は少なく、TGVが登場する以前に開店休業状態であったらしい(山之内秀一郎『新・ヨーロッパの鉄道』「鉄道ジャーナル」連載)。
(5)ターボジェット方式の初期のジェット機は燃費が悪く、長距離路線でないと利益を出すことが難しかったが、第二世代ではシートコストはプロペラ機よりも低下し、短縮した到達時間と100人を超える定員によって、大幅に従来より運航効率が向上した。
(6)ビジネス需要において、乗車列車・便を自在に変更できる、どの時間帯にも十分なだけの本数が運行されている、というのは、到達時間の短縮と同じくらいに営業施策として重要なことである。多くの用務出張では、用務の終了する時間は事前に読めないものであるのに、用事が終われば一刻も早く帰りたいものである。従って、近年のJR東海のExpress予約でも「何度でも乗車列車を携帯電話から変更可能」という点が強調されている。
(7)当時のヨーロッパ鉄道旅行記で、TEEが混んでいたとか、きっぷが取れないとかといった話は殆ど見受けられない。
(8)ただし、近年では環境意識の高まり(保険の問題もあるらしい)などからアウトバーンの巡航速度は低下している。それでも120~150キロは依然として普通の速度である。
(9)社会主義下のポーランドでも高速新線(C.M.K.fastlineと呼ばれる。)が建設された。ワルシャワ・カドビッツ間を結ぶ224キロの路線で、1978年に完成した。曲線半径4500m、最大勾配5‰と優れた規格である。だが、社会主義国らしく、当初は貨物列車にしか使用されず、1984年からは旅客列車も運転されるようになったが、今日でも最高速度160キロに留まり、最速列車でも2時間27分を要している。信号・軌道その他の条件が高速運転に対応していないのである。(田口雅弘氏のサイト「ポーランド情報館」http://www.e.okayama-u.ac.jp/~taguchi/によった。)
(10)ベルリンを中心とした路線網は、ドイツ帝国の中心に向かう路線として明確な放射状となっている。今では幹線ではなくなっている区間もあるが、もとはドイツ領だったポーランド西部、旧東プロイセンまでもがベルリンを中心とした放射状の路線網を形成しているのは対照的である。しかし、ICEの新線が建設されたハノーバー方面を除いては、ナチスドイツ時代の運転時間からスピードアップしていないか、ダウンしている現状である。そもそもThomas Cook時刻表の東ドイツ部分は、列車の少なさに驚くほどで、鉄道の停滞は著しいものだった。
(11)細かいデータなどは住田俊介『世界の高速鉄道とスピードアップ』日本鉄道図書出 版が簡潔にまとめており、参考となった。
(12) ( )内は例外的に採用されたものを表す。
(13)マルセイユ延伸線は当初から最高速度300キロ
(14)ただし、強力な機関車を回転数の限界まで使って記録したものであり、線路も架線も二度と使用できないほどガタガタになっていた。
(15)開業前の大西洋線を使用した記録である。以前の331キロのように軌道を激しく損傷するものではなかったものの、中間車を抜き、電圧を上げ、車輪の直径を大きなものに交換して達成されたものである。これ以上の速度は鉄輪方式では粘着の限界に到達するため不可能と考えられている。このような非現実的な速度記録に固執する国民性には、近代の大陸合理論の到着点としてのフランス国家の極端さ、フランスが世界一という中華主義が見られる。国内の電力の殆どを原子力で賄うことに代表される科学・エリート絶対主義につながるものであり、殆どの日本人の持つおしゃれなフランスのイメージとは殆ど関係ないフランスという国家・国民の本質が見てとれる。
(16)1981年に南側のサンフロランタン・サトネイ間(272キロ)、1983年にパリ側のコムラビル・サトネイ間(117キロ)が段階的に開通した。
(17)イタリアのフィレンツェ・ローマの高速新線も同様である。
(18)東北新幹線は1985年の上野開業を機として200系F編成の最高速度を240キロに向上したが、TGVの260キロを破ったのは1990年の「あさひ」の275キロ運転(上毛高原―浦佐間の下り線勾配を利用。時間短縮の効果は小さく、現在は中止されている)と、1992年に運行を開始した「のぞみ」の270キロであった。しかし、その時点では既にTGV大西洋線で最高速度300キロの営業運転が開始されていた。
(19)従来の0系が転換クロス式であったため、サービス改善として導入されたが、乗客には不評であり、1985年に登場した100系からはシートピッチを広げ、3列側も回転できるようにし、この方式が新幹線のスタンダードとなった。
(20)他の航空便からの乗り継ぎもあり、リヨン行きですら、航空便自体はなくなっていない。
(21)営業キロであって、実際の運転距離(マルセイユ延伸線の正確な距離が分からなかった)は短い可能性もある。
(22)現状では殆どののぞみが新神戸に停車するようになり、朝に1本を除いて2時間21分運転となっている。
(23)日曜運休の8501列車。これ以外はボルドーまでノンストップか、トゥールなどの中間駅にも止まる列車となる。
(24)イングランド南部の路線は殆ど第三軌条方式である。直流750Vの規格は地下鉄の延長といった印象である。
(25)ヨーロッパではeasy jetなどの格安航空会社も盛んである。空いた郊外の空港を使い、予約などにインターネットを多用してコストを削減したこれらの会社の前売り料金は驚くほど安く、イギリス国内で片道数ポンドとか、高くても数千円でヨーロッパ一円を旅行できる。空港へのアクセスの方が高くつくほどである。安さを求める層は飛行機に逃げてしまっているのである。
(26)多くのEU加盟国はシェンゲン条約に加盟し、空港などでは従来の入出国審査はほとんど廃止されている。しかし共通通貨のユーロへの参加が見送られているのと同様に、イギリスのみは独自の厳しい入出国審査の体制が取られている。これには英語圏の中心であることから、外国人労働者の入国を厳しく制限しようという方針が関係している。余談ながらイギリスは日本人の長期旅行者、留学生が最も厳しく審査され、時に送還される国として悪名高い側面も持つ。
(27)将来的にはキングスクロス駅に移動する予定である。(追記 2009年現在、移転済み)
(28)このあたりは国鉄債務の返済と利子の支払いのために収入の多くを取られてしまう東海道新幹線に似ている。
(29)日本で買った1等乗車券にはラウンジ利用特典が付いていることが多い。

ニュータウン開発と鉄道 その2 [鉄道]

2、ターミナル駅について

(a)渋谷駅

 東横線渋谷駅は、東京オリンピック前に4面4線の駅を完成させており、8両化も比較的スムーズであった。営団13号線との相互直通運転の開始に伴い地下化される予定の現在の高架駅は、屋根が半円状の線を連ねたモダンなもので、ワシントンナショナル空港のターミナル(22) と似た造形である。
JRと東横線の駅に隣接した東横百貨店は、初の本格的ターミナルデパートたる大阪梅田の阪急百貨店に範をとり、戦前に現在の東館を完成させていた。当初、他の百貨店の営業時間に合わせる前は年中無休で朝9時から夜9時まで営業という利便性を誇った。現在では平凡な外壁のパネルが張られているが、当初は(写真が白黒なので詳細な色は分からないが)装飾を廃した単色の、装飾過剰な百貨店、ビル建築が目立った当時としては新鮮なモダニズムによっていた。
これに比べると、田園都市線(開業時は)の渋谷駅 (23)は前述のように1面2線の島式ホームで余裕のないこと著しい。しかも待たずに乗れるというならまだしも、急行は以前は昼間30分に1本、今でも15分に1本であり、待つ時間も長い。京王の新宿駅ですら感じられる余裕というものがないのである。
現在の西館は玉川電気鉄道によって玉電ビルとして計画されたが、五島慶太の交通統合の下で大東急(24) のものとなった。しかし3階に銀座線を乗り入れた上は、戦時体制の資材難で五階以上は、戦後に工事は持ち越しになった。西館と東館をつないで新たに山手線をまたぐ売り場も特別に(25)作られ 、1954年に現在の西館が完成した。その際関東大震災の記憶が生々しい戦前の建築なので必要以上に頑丈であり、上階を予定より大きく作っても構造上の問題がないことが判明したため、駅前に広い広場を取っていることもあり、特認で当時のビルの高さ規制を破り40m超の高さを誇ることとなった。当時は本格的なターミナルデパートは少なく、日本の百貨店の売上一位にもなった。なお西館は1960年代に最後に国鉄の駅舎整備の一環として建てられたものだが、特に語るべきことはない。
その後、高級品を売る別のスペースが必要とのことで、1967年に東急本店が開業する。現在では当初ほど東横店との棲み分けは明確ではないようだが、やはり一線を画している。不況下でも1500億円程度の年商(日本経済新聞によれば2002年は9位)を稼いでいるのは立派である。
次いで1970年代に東急の地渋谷に西武百貨店渋谷店(26)も開業 する。これには五島昇の東急も、渋谷の発展のためならということで歓迎ムードであり、テープカットには五島と堤が並んで出席した。以後、西武はロフト、パルコ、東急は東急ハンズ、BUNKAMURAと、極めて独自性の強い集客施設を開業していき、渋谷は一大商業地帯となった。西口の高層ビル街を除いて東口、西口のヨドバシカメラ界隈などに見られるように、どこかの主導というよりは自成的秩序を持つと称すべき新宿の商業地地域としての性格と比べると、明らかに鉄道グループ (27)のイニシアティブが感じられる。
街としての渋谷が新宿などに比べて明らかに劣っていたのはホテル(京王には京王プラザ、小田急はセンチュリーハイアット(28)であった。言うまでもなく優れたシティーホテルは街の顔である。そこで近年は、京王井の頭線及び東急バス停、営団渋谷車庫上空を再開発した「マークシティー渋谷」にエクセルホテル東急を、続いて国道246号沿いの本社を再開発し、高層のセルリアンタワー東急を開業させた。特に、後者はキャピトル東急(旧東京ヒルトン)(29) に代わる二十一世紀の東急ホテルグループのフラッグシップとして力の入ったものである。しかしバブル期から時期をずれ、外資で世界的にもピカイチのパークハイアット東京、フォーシーズンズなどが揃った今日では、大して話題にはならなかった(といっても、まだホテル不足の東京では失敗しようもないが)。
マークシティーの建設コンセプトとして「渋谷を大人の街に」ということが言われたが、その点では肝心の田園都市線の駅構造が人に優しくできていないのは問題である。

(b)新宿

小田急と京王の新宿駅の構造を見てみよう。
小田急新宿駅は関東の私鉄の中で最大のターミナルである。京王と国鉄にはさまれて左右に拡張できないことを逆手にとって急行3線・普通2線を分けた2層式の駅になっている。いずれも両側にドアが開く構造になっていて、乗降時間もかからない。そして5線もある駅では必ず交差支障が問題となるが、2層に分離したことで同時着発車はかなり楽である。駅配線に関しては理想的である。だが、建設当初は急行用で8連、普通用は6連対応であり(といっても余裕は十分あった。)、10連化の際はかなり手をかけて改造を余儀なくされた。
小田急百貨店もJRの新宿西口の全面に亙っており、細長いが別館ハルク(30) 、地下鉄ビル含めそこそこの広さを持っている。だが、近年になって広さを持て余した感があり(より狭い京王百貨店と売上はほぼ同じ1000億円クラス)、ハルクの上層階がビックカメラに貸し出されてしまった。それでも低層階を紳士服や高級スポーツ用品のフロアとして残してあり、生活様式の提案の空間として、新宿西口の雰囲気に溶け込んでいると思う。藤子不二雄Aの漫画やエッセイにはしばしばここが登場するが、伊勢丹のメンズ館ほどでない気軽さがよいのであろう。

京王は3面3線で同じく全て10連対応。東京オリンピック前に京王百貨店と合わせて地下駅としたときは、中型6両対応の5面4線だったが、8連化時にスペースがなくて一線をつぶして特急用3番線の拡幅にあてた。続いて10連化時はもっと厄介で、駅を出てから急カーブで甲州街道に平行するルートへ曲がるため、シーサスポイントを駅の遥か手前の直線部分に移設せざるをえなかった。いかにも行き当たりばったりな感を受けるが、それは京王の過去の姿を知らないからである。基本的には1960年代初めまで甲州街道の路上を走る路面電車であったのである。そこから必死で高速鉄道として、大量輸送へと自らの身を脱皮していったのである。1959年に登場した量産型高性能車(31)の2010系にしても、当初は何と大正時代の小型の半鋼製車をT車化して繋いでいたのである。そのなかで登場した特急車の5000系がどれだけ優美で名車であったことか。
地下駅の当初の計画からは大分歪んだ形で現存するわけだが、X字状の中央階段は開放的である上に、限られたスペースで乗降客をさばく上で優れた設計だと未だに感心せざるをえない。
駅の上の京王百貨店は無理に高級ぶろうとするのをやめて、手ごろな価格の商品を揃えるという方針で一貫しているが、ターミナルデパートの原点から外れないという姿勢は一つの正解であることを示している。


(22)影響関係については未確認。
(23)営団半蔵門線側の渋谷―青山三丁目が開通する前は東急が管理していたが、実は今は営団(改めて東京メトロ?)の管理駅である。
(24)戦時中の交通統合の中で中央線以南の私鉄は全て東急に統合された。
(25)2002年7月に『日本経済新聞』に連載された石川六郎『私の履歴書』(『克己』・日本経済新聞社・2003、非売品)には、当時国鉄に勤務していた著者が、許可をもらわないと会長(五島慶太)の血圧が上がるので何とか、と東急の社員から陳情を受ける場面が描写されている。
(26)堤兄弟とセゾングループの軌跡については、翻訳物ながらレズリー・ダウナー『血脈 西武堤兄弟の真実』徳間書店・1996が、上之郷利昭などの凡百なビジネス書より優れている。(実は小説家の辻井喬こと堤清二自身の回想が出れば、そちらが良いだろう。)
(27)堤清二の率いたセゾングループ(今では経営再建の過程で、西武=そごう以外はバラバラになったが。)は従来から、異母弟の義明の経営する鉄道グループとは一線を画してきたが、「西武」というネームバリュー自体を否定するには至らなかった。なお二人の父で創業者の堤康次郎の正伝(由井常彦他『堤康次郎』リブロポート・1996)もセゾン側から出版された。大手私鉄の中で唯一、自社の歴史を語る社史を出していない、鉄道グループの秘密主義の現れである。
(28)世界的なホテルチェーンのハイアットの中では標準クラスのハイアットリージェンシーに相当し、「センチュリー」が小田急系を表す。
(29)戦後史におけるこのホテルの特異な性格については富田昭次『東京ヒルトンホテル物語』オータパブリケーションズ・1996に詳しい。
(30)本館が開業する前は、こちらだけで営業していた。
(31)カルダン駆動、軽量車体、電気ブレーキを兼ね備えた車両をいう。小田急2200系が端緒とされる。

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