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日本はなぜ五輪でふるわないか [海外事情]

(筆者個人はスポーツの成績を国民国家単位に評価すること自体に反対しています)

本章を書いている時点で、日本の金メダル獲得数は2個で、4個の北朝鮮どころか、ベラルーシやウクライナを下回る勢いである。銀銅を含めた総メダル獲得数で議論する向きもあるが、サッカーやテニスの世界ランキングか、一対一の対戦でない点でもっと厳密なアルペンスキーのワールドカップの年間王者(各種目のクリスタルトロフィーと、全体の大トロフィー)を選出するポイント計算法あたりを参着すべし。

要因としてはいくつかが考えられよう。
第一に言われるのは中国、韓国の国家的なメダリスト育成政策との格差である。アメリカのナショナルチーム強化策も指摘される。だが、これらは資本主義国に対する社会主義国の体制の優位を主張するためのソ連東欧諸国などのかつてのスポーツ政策の猿まねである。国家の資源を国際的に目立つものに集中投入するのはソ連の宇宙開発と同じである。東西ドイツ統一の折には「統一ドイツは五輪メダルで世界一となるだろう」という議論があったが、東ドイツがドーピングなどやりたい放題だった反動か、未だ達成されていない。
第二に、メダルの数を稼ぐにはサッカーやソフトボール、野球(もう公式競技から外れた)なんて団体競技はどうでもよくて、世界的な競技人口の割にメダル数が多く、科学的に選手育成が可能なマイナー競技のボートやセーリング、ウェイトリフティング、フェンシング、射撃、アーチェリー、馬術、自転車などに注力するという中国韓国北朝鮮、開催国のイギリス、ニュージーランド(ボート)の政策は天晴れである。日本の体育教育が小学校の段階から球技に偏っており、スポーツの素質ある選手がメジャー競技に埋没してしまうとの論ももっともである。

あまり指摘されない第三の面が重要だと思う。それは学校スポーツと企業スポーツによって支えられていた過去の日本のスポーツ体制の衰退である。
学校スポーツというのは建前としての平等社会のアメリカ流の発想であり、階級社会としての欧州には相容れない。欧州のサッカーなど、学校教育から締め出された下層階級の若者の憂さ晴らしの手段にすぎない。
だが日本のベルリンオリンピックあたりでの成功(今より遙かに競技数が少ない中でのメダル数は過小評価できない。リーフェンシュタールの記録映画にどれだけ日本人が露出していることか)は戦後に引き継がれる。
学校スポーツというと、甲子園のように打算ない高校生の純真さばかりが強調される。だが、それは日本の現実においては、企業丸抱えの終身雇用社会を背景とした企業スポーツとの関わりなしに殆どの競技は考えがたい。プロ野球は有名企業の広告塔だったし、都市対抗野球を目標としたアマチュア野球も無視できない。高卒でも大卒でも「運動部は就職に有利」との言説とのつながりで学校スポーツは力を持てた一面は否定できないだろう。
今や企業スポーツはどの会社もグローバル化を背景とした経営の合理化で風前の灯火である。もとより高卒の場合はスポーツ枠は終身枠でなく、選手引退は会社退職と同義であることも多かったが(ここは大卒スポーツのラグビーやサッカーの場合と違う。戦後経済の二重構造を象徴している)、それでも指導者、コーチなどの枠は馬鹿にならない。それがなくなりつつあるのだ。(サッカーにしても、プロ野球選手の再就職より難しい面がある。階級社会の欧州で育ったサッカーでは監督コーチに国際資格が要請されるため、多くの有名選手が指導者の道を歩むことを難しくさせている

どんな有力なスポーツ選手にも故障や体力の限界で引退の時は来る。その後の生活の保障が問題なのだ。メダル獲得について、
「報奨金を増枠せよ」
との議論がある。だが、そんなものは300万円が1000万円になったところで、正社員の生涯年収に比べれば微々たるものだ。オリンピックに出たクラスの選手でもマイナー競技では引退後に定職のない者など珍しくない。引退後の生活に保障のない状態で、果たして競技に純粋に打ち込めるものだろうか。
ここでアメリカの例を対照して考えてみよう。アメリカは学校スポーツの国家だが、新卒第一の終身雇用社会ではない。だから選手引退後でもいくらでも人生の巻き返しが可能である。新卒第一主義の日本では、企業スポーツが衰退すれば、たとえ大卒でも選手は正社員としての就職を諦めるか、大学卒業で競技を打ち切らざるをえない。
これらの蓄積はどう評価されるであろうか。

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