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大下英治「小説土井たか子」と90年代政界再編劇 [政治]


小説 土井たか子 (現代教養文庫)

小説 土井たか子 (現代教養文庫)

  • 作者: 大下 英治
  • 出版社/メーカー: 社会思想社
  • 発売日: 1995/03
  • メディア: 文庫




小説・土井たか子―山が動いた

小説・土井たか子―山が動いた

  • 作者: 大下 英治
  • 出版社/メーカー: 徳間書店
  • 発売日: 1990/01
  • メディア: 単行本



大下英治の政界本はそれほどベストセラーということはないが、業界人にはずいぶん読まれているようだ。
彼の著作のスタイルは独特である。新聞の政治面(丸山真男以来、「政界面にすぎない」という批判は当然に受け止めなければならないが)にも出ていない、同時進行形の生の大物政治家の発言が
「小説」
という隠れ蓑で、さも著者が宴席や秘密会合に同席していたかのように書かれる。
いかにも怪しい手法だが、政治家のオフレコ発言の情報を新聞社から仕入れるなどの方法で内容を担保しているようである。
そもそも月1冊では効かない冊数の著書を大下個人の筆力だけで書けるはずもなく、
(執筆量は確保できても、取材が追いつかないだろう)
「ゴルゴ13」のような多数のスタッフの共著的な方法らしい。
いまのところ関係者から大下が捏造発言で告訴されたりしてはいないので、おおむね事実なのだろう。
立花隆の最近の政界ネタはほとんど大下情報を根拠にしているようだ。
あまりに細かい事実描写は無意味とも思えるが、私はそうだと思わない。歴史は意外と個人的な人間関係、キーパーソンの前人生、価値観、好みなどに左右されるものである。細部を軽視してはならない。

閑話休題

1990年代半ばの政界再編劇と連立政権の詳細については、驚くほど日本国民には知られていない。ネット右翼が村山総理を売国奴と罵るだけである。一般人も首相の名前くらいしか覚えていない。
その原因の一つは、吉田茂や佐藤栄作、果ては田中角栄の時代の話のように、その時代の出来事が物語として国民の記憶に編成されていないからである。竹下派七奉行は知っていても、彼らがどう自民と反自民に袂を分かったのかも知られない。社会党に至っては
・無意味な派閥争いの横行
・選挙、資金面で労組頼み
・極左は共産党より過激。
といった断片情報しか知られていない。
徳間文庫の大下の著作はまだ売れているようだが、それ以前の角川文庫や「土井たか子」などは古本屋でも滅多に見ない。それだけ政界の業界人、マスコミの政治部員などがネタ本として手元に温存しているからだろうか。


以下の事実を知っている人間はどれだけいるだろうか。
・生家は神戸の開業医で、戦前に自家用車を持っているほどの恵まれた環境。
・土井たか子は戦時中の京都女子専門学校(現京都女子大学)の東亜文学科に在学。国策で英語の授業が廃されたため、中国語を勉強させられた。
・(ネット上では編入に疑問の声も出ているが)戦前から女子大生を受け入れていた同志社大学法学部に編入し、研究者の道を歩む。
・だが女性研究者として相当下駄は履かされていた模様。修士論文の国政調査権の論文は学部の卒論程度と指導教授以外に酷評され、修士課程に4年在籍
・憲法の研究者と一般に言われながら、衆議院選挙に立候補する40歳まで大学で常勤のポストは得られなかった。この間、論文執筆は殆どなく、社会党の下部組織での護憲運動=プロ市民活動がメイン。

(初当選から委員長選立候補までの描写がほとんどない)
・社会党委員長の専用車は飛鳥田委員長の時代はなかった。
・土井たか子の時代には旧型センチュリーになっていて、多くの非大臣の自民党代議士の車より上で、同期当選の森喜朗から見つめられるレベルだった。
・岩垂寿喜男は総評の事務局出身の左派幹部だが、無派閥の土井たか子を政策面で支えた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%9E%82%E5%AF%BF%E5%96%9C%E7%94%B7
・伊藤茂(1928~ 存命)は社会党事務局から昇格の超エリートで、悪筆を補うために1980年代からモバイラーだった。伊藤の文書作成の速さと守秘性が土井執行部を支えた。
(社会党に大物多選議員は少なかった。労組の論功行賞で50代で議員になるが、10年ほどで後輩に交代させられて、なかなか大物になれない。だから連立政権期に多くの著名議員は入閣した。当選回数は既に自民党を追い越す勢いだった)
・少数のエリート多選議員の政策能力、国際情勢の把握度は相当のものだった。自民党に比べて勉強不足なのは否めないが、各省庁の官僚からレクチャーを受ける場がないことを思えば、特筆すべきこと。
・脱冷戦の現状分析、未来像はけっこうリアリズムに富んでいた。
・だが執行部の権限が極端に少なく、石橋委員長時代から進められた革命路線からの転換、政権参画を党の方針として確定させる(綱領変更など)に至らなかった。
・土井たか子を衆議院議長に推す小沢一郎の深慮遠謀は、土井ら最左派(この段階で教条主義的な社会主義協会系は壊滅に近い)を護憲派の河野洋平と連携させないため。この時点で左派が自民党と連携することを既に小沢ら新生党は危惧していた。

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