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中央アフリカの鉄道 [鉄道]

(以下はクラレンス・B・ディビス他
『鉄路17万マイルの興亡 鉄道から見た帝国主義』日本経済評論社・1996

の内容メモ)

第3章 中央アフリカにおける鉄道政治と帝国主義 1889~1953

参考人名
(主に『増補版 岩波西洋人名辞典』によって調査)

日本語では本書にしか情報がない人物も多く、貴重な情報源。ヨーロッパの小国やアフリカ・中東の政治家を調べるには最高の出来である。(誰得感も多いけど)

クルーガー:(1825~1904)
 ケープ植民地のオランダ系家族の出。幼時にトランスバールに移住。一貫して反英政策を遂行。トランスバール共和国大統領(1883~1900)を務めるが、南アフリカ戦争を招いて辞職。スイスで歿。

スマッツ:南アフリカの政治家、軍人(1870~1950)
ケープタウン生まれ。ケンブリッジに学び、生地で弁護士に。政治に関心を持ち、トランスバールに移住、クルーガ-の代理人として対英交渉に当たる(1898)。南アフリカ戦争で連邦軍最高司令官。講和会議を主導。戦後は対英協力政策を推進、南アフリカ連邦樹立後は国防相。第一次世界大戦では帝国臨時閣僚。国際連盟設立に尽力。帰国後連邦首相(1919~1924)。ドイツへの中立政策を唱えるヘルツォークに代わって第二次世界大戦中も首相(1939~1948)。

ソールズベリー卿:イギリス首相(1830~1903)
 オックスフォード大卒(1849)。保守党員として下院に入り(1853)、グラッドストーン内閣などの自由主義政策を批判。ダービ内閣でインド事務相(1866)。オックスフォード大総長(1869)。ディズレーリ内閣でも入閣し、ベルリン会議次席代表。保守党首として三度首相に(1885~86、86~92、95~1902)。概ね外相を兼ねる。アフリカ分割を完了し、末期には日英同盟で名誉ある孤立を放棄。

レオポルト二世:ベルギー王(1835~1909、在位1865~1909)
ヴィクトリア女王の従弟。普仏戦争で中立を守った後、列強の帝国主義的植民政策と国内産業発展に刺激されてアフリカに関心を持ち、万国アフリカ協会を設立(1876)。スタンリーのコンゴ探検(1879~84)を援助。ベルリン会議(1885)でコンゴの主権を認められる。コンゴ自由国を建設し、後にベルギーに併合(1908)。


○ 中央アフリカの鉄道の三段階の発展

1、南アフリカから北に伸びる線路を最終的にカイロに繋ごうとする、セシル・ローズ他の英帝国拡張論者の想像力に端を発した帝国主義戦略の一環として建設。ケープ植民地をプーア共和国より優位に立たせる手段。レオポルト2世領土拡張戦略とドイツのアフリカ横断計画との競合。
2、戦間期。帝国戦略よりは、既存領土の経済発展に左右される。植民地国家と英国南アフリカ会社など国際資本、帝国政府の鉄道支配を巡る闘争。
3、第二次世界大戦後。南ローデシア政府の鉄道獲得から、中央アフリカ連邦の成立へ。

○ 第1段階

・19世紀後半の鉱物資源の獲得で、南アフリカ植民地が航路確保以上の意味を持つようになる。
1889 セシル・ローズの英国南アフリカ会社設立
→トランスバールとオレンジ自由国(前章参照)よりケープ植民地を優位に立たせるため、北進する鉄道の建設。
→資源に乏しく帝国の負担となっているベチュアナランドを通る鉄道建設の代償として帝国政府は特許状を交付。フライブルク、マフェキングまでの土地を贈与。
→ケープ植民地にその土地の三分の二を受け取らせて、フライブルクまでの鉄道建設の資金を供与させるが、恐慌による資金難で建設停滞。

1897、ベチュアナランド線がウムタリへ。
1898、南ローデシアから南方、東方の港へ全通
1899、マショナランド鉄道によって、狭軌(ナローゲージ?)のベイラ鉄道から延長する形でソールズベリーまで全通
1902、ケープタウンからベイラまで全通

・ケープ、カイロ構想のためのベルギー国王、ドイツ帝国との交渉。
→当初のタンガニーカ湖付近経由から、炭層の発見されたワンキー経由に計画を変更。
 (経済的理由が政治的配慮に優先する例)
1899、ロバート、ウィリアムズの探検隊が北ローデシアとコンゴ自由国で銅鉱脈を発見  →700マイルの距離にあるローデシア鉄道に注目
→当初交渉は難航するが、マショナランド鉄道の経営難による資金不足を補うために、カタンガ鉱山からの鉱産物輸送にローデシア鉄道側が着目。
1908 三者合意
1910 カタンガの新行政府エリザベスヒルまで鉄道全通
1913 鉱山の操業が始まり、東岸のベイラまで輸送される。

○ 第二段階

・従来のローデシア(ローズの国)は英国南アフリカ会社の所有
・鉄道会社と鉱山会社の資金的相互依存関係による鉱業優先の輸送(全体の60%)
→鉱業と関係ない白人移民の増加で特許会社と確執。
→植民省も会社を警戒視するように。
・豊富な地下資源の開発のために、会社と帝国の利益を守りつつ、植民者を懐柔する方針
・アフリカーナが発言力を有した形での南アフリカ連邦の成立

1923 南アフリカ会社は行政経費の赤字に対して375万ポンドの補償を受けて、南北ローデシアの土地所有権を放棄。しかし鉱山利権は引き続き保有。
   南ローデシア(ジンバブエ)は自治政府、北ローデシア(ザンビア)は帝国直轄領に。

 ● ベンゲラ鉄道の建設

1926 ポルトガル領を通るベンゲラ鉄道の建設にイギリス政府が支援
・いずれにせよカタンガからアフリカ西岸に出る鉄道は建設されるものであり、イギリスの影響下に置いた方が好都合。
・現状では、カタンガ鉱山からの鉱石はローデシア経由で東岸のベイラに輸送されているのに、ポルトガル領を通る代替ルートの建設は料金競争の面でローデシア鉄道=南アフリカ会社の経営にとって重大な影響を与える。
→特許会社と、スマッツ元帥の南アフリカ政府は猛反対。スマッツは連邦をローデシアに拡大し、ローデシア鉄道も南アフリカ国有鉄道に統合してカタンガの鉱物輸送を握ることも狙う。
→1926年以降は南ローデシア自治政府も反対の立場に
1926、コグラン率いる南ローデシア政府は鉄道の管理権を獲得
1933 世界恐慌の影響下で資金不足に陥ったローデシア鉄道会社は、鉱山利権を南ローデシア政府に売却

第三段階 鉄道と中央アフリカ連邦

・鉄道支配、つまり地域の鉱物生産の支配が、領土合併のための帝国政府の植民地政府の抵抗を切り崩す梃子になる。
(連邦の成立を全てを鉄道と鉱山の問題に単純化は出来ないが。)
・中央アフリカと帝国全体との関係はカナダに似ている。

第二次世界大戦
→鉱業生産の拡大、輸送の増加、老朽化した設備の補充などの問題から鉄道の国有化が緊急の課題に

1947 南ローデシア政府がローデシア鉄道の資本を買収することに、帝国政府が合意し、3200万ポンドを借り入れ。
・イギリス経済が戦後の苦境にある中で、ポンド=スターリング圏のドル収支の改善のためには、帝国内の銅・クロムなどの生産拡大が必要な状況
1953 中央アフリカ連合が成立
1963 北ローデシアとニャサランド(現マラウイ)の反対で連邦解散


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