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ニュータウン開発と鉄道 その2 [鉄道]

2、ターミナル駅について

(a)渋谷駅

 東横線渋谷駅は、東京オリンピック前に4面4線の駅を完成させており、8両化も比較的スムーズであった。営団13号線との相互直通運転の開始に伴い地下化される予定の現在の高架駅は、屋根が半円状の線を連ねたモダンなもので、ワシントンナショナル空港のターミナル(22) と似た造形である。
JRと東横線の駅に隣接した東横百貨店は、初の本格的ターミナルデパートたる大阪梅田の阪急百貨店に範をとり、戦前に現在の東館を完成させていた。当初、他の百貨店の営業時間に合わせる前は年中無休で朝9時から夜9時まで営業という利便性を誇った。現在では平凡な外壁のパネルが張られているが、当初は(写真が白黒なので詳細な色は分からないが)装飾を廃した単色の、装飾過剰な百貨店、ビル建築が目立った当時としては新鮮なモダニズムによっていた。
これに比べると、田園都市線(開業時は)の渋谷駅 (23)は前述のように1面2線の島式ホームで余裕のないこと著しい。しかも待たずに乗れるというならまだしも、急行は以前は昼間30分に1本、今でも15分に1本であり、待つ時間も長い。京王の新宿駅ですら感じられる余裕というものがないのである。
現在の西館は玉川電気鉄道によって玉電ビルとして計画されたが、五島慶太の交通統合の下で大東急(24) のものとなった。しかし3階に銀座線を乗り入れた上は、戦時体制の資材難で五階以上は、戦後に工事は持ち越しになった。西館と東館をつないで新たに山手線をまたぐ売り場も特別に(25)作られ 、1954年に現在の西館が完成した。その際関東大震災の記憶が生々しい戦前の建築なので必要以上に頑丈であり、上階を予定より大きく作っても構造上の問題がないことが判明したため、駅前に広い広場を取っていることもあり、特認で当時のビルの高さ規制を破り40m超の高さを誇ることとなった。当時は本格的なターミナルデパートは少なく、日本の百貨店の売上一位にもなった。なお西館は1960年代に最後に国鉄の駅舎整備の一環として建てられたものだが、特に語るべきことはない。
その後、高級品を売る別のスペースが必要とのことで、1967年に東急本店が開業する。現在では当初ほど東横店との棲み分けは明確ではないようだが、やはり一線を画している。不況下でも1500億円程度の年商(日本経済新聞によれば2002年は9位)を稼いでいるのは立派である。
次いで1970年代に東急の地渋谷に西武百貨店渋谷店(26)も開業 する。これには五島昇の東急も、渋谷の発展のためならということで歓迎ムードであり、テープカットには五島と堤が並んで出席した。以後、西武はロフト、パルコ、東急は東急ハンズ、BUNKAMURAと、極めて独自性の強い集客施設を開業していき、渋谷は一大商業地帯となった。西口の高層ビル街を除いて東口、西口のヨドバシカメラ界隈などに見られるように、どこかの主導というよりは自成的秩序を持つと称すべき新宿の商業地地域としての性格と比べると、明らかに鉄道グループ (27)のイニシアティブが感じられる。
街としての渋谷が新宿などに比べて明らかに劣っていたのはホテル(京王には京王プラザ、小田急はセンチュリーハイアット(28)であった。言うまでもなく優れたシティーホテルは街の顔である。そこで近年は、京王井の頭線及び東急バス停、営団渋谷車庫上空を再開発した「マークシティー渋谷」にエクセルホテル東急を、続いて国道246号沿いの本社を再開発し、高層のセルリアンタワー東急を開業させた。特に、後者はキャピトル東急(旧東京ヒルトン)(29) に代わる二十一世紀の東急ホテルグループのフラッグシップとして力の入ったものである。しかしバブル期から時期をずれ、外資で世界的にもピカイチのパークハイアット東京、フォーシーズンズなどが揃った今日では、大して話題にはならなかった(といっても、まだホテル不足の東京では失敗しようもないが)。
マークシティーの建設コンセプトとして「渋谷を大人の街に」ということが言われたが、その点では肝心の田園都市線の駅構造が人に優しくできていないのは問題である。

(b)新宿

小田急と京王の新宿駅の構造を見てみよう。
小田急新宿駅は関東の私鉄の中で最大のターミナルである。京王と国鉄にはさまれて左右に拡張できないことを逆手にとって急行3線・普通2線を分けた2層式の駅になっている。いずれも両側にドアが開く構造になっていて、乗降時間もかからない。そして5線もある駅では必ず交差支障が問題となるが、2層に分離したことで同時着発車はかなり楽である。駅配線に関しては理想的である。だが、建設当初は急行用で8連、普通用は6連対応であり(といっても余裕は十分あった。)、10連化の際はかなり手をかけて改造を余儀なくされた。
小田急百貨店もJRの新宿西口の全面に亙っており、細長いが別館ハルク(30) 、地下鉄ビル含めそこそこの広さを持っている。だが、近年になって広さを持て余した感があり(より狭い京王百貨店と売上はほぼ同じ1000億円クラス)、ハルクの上層階がビックカメラに貸し出されてしまった。それでも低層階を紳士服や高級スポーツ用品のフロアとして残してあり、生活様式の提案の空間として、新宿西口の雰囲気に溶け込んでいると思う。藤子不二雄Aの漫画やエッセイにはしばしばここが登場するが、伊勢丹のメンズ館ほどでない気軽さがよいのであろう。

京王は3面3線で同じく全て10連対応。東京オリンピック前に京王百貨店と合わせて地下駅としたときは、中型6両対応の5面4線だったが、8連化時にスペースがなくて一線をつぶして特急用3番線の拡幅にあてた。続いて10連化時はもっと厄介で、駅を出てから急カーブで甲州街道に平行するルートへ曲がるため、シーサスポイントを駅の遥か手前の直線部分に移設せざるをえなかった。いかにも行き当たりばったりな感を受けるが、それは京王の過去の姿を知らないからである。基本的には1960年代初めまで甲州街道の路上を走る路面電車であったのである。そこから必死で高速鉄道として、大量輸送へと自らの身を脱皮していったのである。1959年に登場した量産型高性能車(31)の2010系にしても、当初は何と大正時代の小型の半鋼製車をT車化して繋いでいたのである。そのなかで登場した特急車の5000系がどれだけ優美で名車であったことか。
地下駅の当初の計画からは大分歪んだ形で現存するわけだが、X字状の中央階段は開放的である上に、限られたスペースで乗降客をさばく上で優れた設計だと未だに感心せざるをえない。
駅の上の京王百貨店は無理に高級ぶろうとするのをやめて、手ごろな価格の商品を揃えるという方針で一貫しているが、ターミナルデパートの原点から外れないという姿勢は一つの正解であることを示している。


(22)影響関係については未確認。
(23)営団半蔵門線側の渋谷―青山三丁目が開通する前は東急が管理していたが、実は今は営団(改めて東京メトロ?)の管理駅である。
(24)戦時中の交通統合の中で中央線以南の私鉄は全て東急に統合された。
(25)2002年7月に『日本経済新聞』に連載された石川六郎『私の履歴書』(『克己』・日本経済新聞社・2003、非売品)には、当時国鉄に勤務していた著者が、許可をもらわないと会長(五島慶太)の血圧が上がるので何とか、と東急の社員から陳情を受ける場面が描写されている。
(26)堤兄弟とセゾングループの軌跡については、翻訳物ながらレズリー・ダウナー『血脈 西武堤兄弟の真実』徳間書店・1996が、上之郷利昭などの凡百なビジネス書より優れている。(実は小説家の辻井喬こと堤清二自身の回想が出れば、そちらが良いだろう。)
(27)堤清二の率いたセゾングループ(今では経営再建の過程で、西武=そごう以外はバラバラになったが。)は従来から、異母弟の義明の経営する鉄道グループとは一線を画してきたが、「西武」というネームバリュー自体を否定するには至らなかった。なお二人の父で創業者の堤康次郎の正伝(由井常彦他『堤康次郎』リブロポート・1996)もセゾン側から出版された。大手私鉄の中で唯一、自社の歴史を語る社史を出していない、鉄道グループの秘密主義の現れである。
(28)世界的なホテルチェーンのハイアットの中では標準クラスのハイアットリージェンシーに相当し、「センチュリー」が小田急系を表す。
(29)戦後史におけるこのホテルの特異な性格については富田昭次『東京ヒルトンホテル物語』オータパブリケーションズ・1996に詳しい。
(30)本館が開業する前は、こちらだけで営業していた。
(31)カルダン駆動、軽量車体、電気ブレーキを兼ね備えた車両をいう。小田急2200系が端緒とされる。

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