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ニュータウン開発と鉄道 その1 [鉄道]

(以下は2004年に某会誌に書いた旧稿の再録)

0、はじめに

 多摩田園都市と多摩ニュータウン、いずれも東京の西南の郊外に造られた10万人規模のニュータウンであり、ニュータウンの建設と前後して東急田園都市線、小田急多摩線と京王相模原線という都心への通勤路線が建設されたという共通の歴史を持っている。しかしながら、過去の建設計画の主体、および現在の都市構造は大きく異なっている。
多摩田園都市は民間企業の東京急行電鉄が主導して、土地区画整理方式で開発したものであるのに対して、多摩ニュータウンは政府の首都圏の住宅政策の一環として計画が行われたものである。また前者では都心への通勤客の動きこそ莫大であるものの、地域内に百貨店以下沿線の商業施設なども充実しているのに対し、後者では新宿へのストロー現象が著しく、多摩ニュータウン中央でさえ商業地域として完結しているとはいいがたいものがある。これらの相違点について考えてみたい。沿線文化論でもなく、ターミナル論でもなく、通史でもない奇妙な文章だが、読者の寛恕を請いたい。

1、沿線開発の軌跡

(a)多摩田園都市の場合

 そもそも東京急行電鉄(以下、東急と略称)の起源 (注1)は、路線としては1923年に全通した現在の目黒線・多摩川線にあたる目黒―田園調布―蒲田にある。その建設主体は、田園都市株式会社の建設した住宅地へのアクセス鉄道としての目黒蒲田電気鉄道であった(2)。(以下の歴史 については、以前の拙稿「東急グループの歴史」にも詳述したので、簡潔に記すことにする。)
田園都市株式会社は、20世紀初頭のイギリスの田園都市の思想に影響を受け、公害と過密に苦しむ既存市街地を離れて、郊外の農村の中に住宅地を開発しようとしたものであり、日本の資本主義の租ともいえる渋沢栄一が、その生涯の終盤に着手した社会事業である。本来土地販売の対象とされたのは中流のサラリーマンであったが、開発地の中心の田園調布が、有名芸能人、オーナー経営者でないと住めない(以前からの住民も相続税の関係で家を維持できない。)高級住宅地(3) となったのは戦後の首都圏の住宅事情の悪化が必然的にもたらしたこととはいえ、皮肉なことであった。
モータリゼーションが発達していない当時の日本では、職住分離(4) の住宅地にはアクセスとなる鉄道(5) が必要であったが、鉄道事業に詳しい経営者を求める必要があった。当初、阪急の経営を成功させていた小林一三に話がいったが自身は多忙であり(6) 、小林の推薦で鉄道院の官僚出身の五島慶太が、その任に選ばれた。
目蒲線の建設が完了すると、従来から計画と免許のみがあったが建設費の問題で実際の建設には取り掛かっていなかった渋谷―横浜の武蔵電気鉄道(7) の免許線の建設に取り掛かることになり、1927年に全線が開通した。

『東京急行電鉄五十年史』によれば、上野毛(8) に広壮な自宅を構えた五島慶太は周囲を散歩することが多く、多摩川対岸の広大な台地の開発の可能性について、戦前から注目していたとしている。
戦後の公職追放からの復帰後の五島慶太の、航空から映画、製粉事業など広範にわたる事業展開については、日本橋の百貨店白木屋の買収問題など有名であるが、地域開発がその根幹にあったことは否めない。多摩丘陵の開発がその際たるものであった。
大井町線の延長計画の検討が始まったのは1953年からであり、沿線の土地買収も進められた。社員名などでバラバラに買収しておいた土地を積み重ねて、開発計画予定地の全体の中で東急側の保有地ある程度以上の比率に達した上で、沿線の地主に諮って土地区画整理組合を組織するという方法である。区画整理の結果、バラバラの東急の保有地は統合され、開発により都市基盤が整備され、地価は上がる。その開発利益を鉄道建設の費用にあてるという手法である。
土地区画整理法の間隙を縫う手法であり、私企業が実際の区画整理計画、実行の主体となることについては、当時から法律解釈の問題もあったようである。しかし、何らかの統一的な開発が行われずに放置されたところで、高度成長の中での東京への人口集中の動きの下では、当該地のスプロール化が進んだことは想像に難くない。
開発のマスタープラン(9) は1956年に発表された。開発のモデルとして比較的平坦で地権者の数が少なく意見統合が容易な、川崎市の野川第一土地区画整理組合が1959年に発足し、1961年の恩田第一土地区画整理組合などに続いた。
1966年には建築家の菊池清訓と共同で多摩田園都市開発計画が発表された。これは1965~70年の第一期を準備期として、区画造成と駅前の複合施設の建設を、1971~75年の第二期には地域の核となる住区センター(クロスポイント)と低層集合住宅のビレッジを、75年からを第三期、81~85年を第四期の調整期とする計画であった。
平行して鉄道の建設も進んだ。当初から路線は、大井町線の終点 (10)の溝ノ口と小田急江ノ島線の中央林間を結ぶものとして計画され、1960年に全線の免許を取得した。1963年には、国鉄横浜線の長津田までの第一期工事の工事認可を取得し、1966年4月に一気に長津田まで開通した。それより先の延伸は序序に行われ、1984年に中央林間まで全通した。
新線とはいえ、通勤路線としてさほどの高速運転を行う必要は想定されておらず、台地を縫う路線の性格のためもあり、最小半径は300mと線路規格は大して高いとはいえない。戦前に高速鉄道として作られた東横線や小田急の方がよほど線形はいい。NT線として作られた小田急多摩線や京王相模原線とは、比較にならないといってもいい。
流石に路面電車の玉川線は、多摩田園都市からの通勤輸送の主役たりえず、1960年代のアンチ路面電車の動きの中で1969年に廃止された。従って当初の田園都市線の電車は全て大井町線に直通 し(11)、自由が丘で東横線に乗り換えて都心に向かうルートが取られた。当然ながら東横線の混雑は激化し、急行の中型 8両化(12)、20m車の8000系(13) の導入が進んだ。
当初、新玉川線(現在は田園都市線に統合された)は銀座線を延長する形で東京オリンピックまでに建設する予定であったが、実現できないままになった。更に輸送量の拡大に伴い、もっと大型の線路規格の路線でないと通勤客を輸送しきれないことが予想され、新たに地下鉄線(半蔵門線)を建設し、規格を変更した新玉川線と都心と相互乗り入れすることとなった。当然20m車10連対応である。1977年に渋谷―二子多摩川が全線開通した。ほどなく昼間に田園都市線内で通過運転する直通快速も30分間隔で運転を開始した。当初は8500系6連だったが、激しいラッシュにより、1983年には早くも10連が登場した。
東急田園都市線の沿線を語る上で忘れてはならないのは、去年3月の東武、半蔵門線との3社直通運転が始まるまで昼間の優等列車(1996年からは新玉川線区間も通過運転する急行)が30分間隔であったことである。今では15分間隔となったがそれでも、京王の20分に4本の優等列車を運行するダイヤと比べると、中距離利用者にとって不便なのは確かである。
このような昼間の都心アクセスの不便さもあり、沿線の商業施設が発達した。鶏が先か卵が先か難しい話だが、まだ新玉川線が開通する以前から二子多摩川には高島屋が開店しており、東急ハンズも渋谷に先駆けて開店した。渋谷が若者の町の印象が強まりすぎたためもあり、他の路線と比べて、沿線で買い物し、自足する傾向が強いことは否めない。
一般に東急沿線は近年の「東急クオリティー」に象徴されるように、沿線の高級な生活のイメージを定着させることに成功してきた。この点は関西における阪急の企業イメージの成功と対比して考えることができる。
しかし肝心の点は阪急とは異なる。木目調のインテリア、軌道と台車の良さからくる絶妙な乗り心地など、通勤電車としてはあらゆる面で非を言いがたい阪急に比べると、東急の車両とダイヤ、設備は、意外に通勤ラッシュ時の大量輸送のみに力点をおいた無機質なものである。ダイヤのほかにも、車両は5200系から一貫して無塗装のステンレス車体であり、9000系が登場するまでは「混雑したラッシュ時には冷房の送風手段として、ラインデリア(14)よりも扇風機の方が涼しい」(確かに真理だが。)との理念に基づき、国鉄ですらラインフローの天井の電車を作っていた1980年代前半に、天井に分散型クーラーと扇風機が並ぶ内装を続けた。
駅について考えてみると、後述するように、まだ東横線の渋谷駅には曲線の美しさがあるが、田園都市線の渋谷駅はあれだけの輸送量を誇る路線のターミナルなのに、直ぐに人で溢れてしまうほどの手狭さである。

 多摩ニュータウン(15)は、戦後の東京の住宅難を打開するため、政府(具体的には東京都首都整備局)と住宅都市整備公団が計画したものである。その計画は都心から15キロの範囲にグリーンベルトを作った上で、その外側に数十箇所の5~10万人規模のニュータウンを作ろうとした昭和30年代の首都圏整備計画に基づいていた。
当初 から鉄道アクセスには北側の京王多摩川線の延伸(16)、小田急の支線建設が計画された。京王は従来から相模原方面への路線延長を計画しており、小田急も鶴川からの分岐を計画していた。1964年5月には南多摩地区輸送計画調査委員会が報告書(いわゆる八十島 レポート)(17)を出し、ルート九案が検討された。アクセス鉄道は前提としてラッシュ時一時間31000~57000人の通勤客を見込み、途中乗降を含めた一時間あたりの通過人員は84000人と想定された。
当然ながら複々線が計画された。京王ルートは東京10号線として現在の都営新宿線と一体で新宿―調布―多摩センター―橋本 (18)、小田急ルートは都営9号線として営団千代田線として整備されることとなった。
 多摩ニュータウンの場合は、多摩田園都市の場合と異なり、新住事業となった。すなわち、対象となる地域の土地は強制的に全て買収され、日本住宅公団と東京都、都住宅整備公団のみが土地開発を行いうるものとされた。しかし、現実には開発完了後に元地主が土地を買い戻そうとしても、地価が格段に上がるため十分の一くらいになってしまうことが明らかになるや、現地説明会では反対ばかりとなった。そこで、新住区域を丘陵地に留め、平地では区画整理事業で開発を行うこととなった。千里や泉北、高蔵寺、港北、千葉などのニュータウンに比べて、これは異例のことであった。しかし利点もあった。
 新住事業は要するに、お役所の事業でございますので、やれる事が限られております。ところが、都会は雑多な機能が集まっているところが魅力であるわけですから、あまり綺麗すぎてはどうも面白くない、活気がないんです。ところが区画整理事業ですと土地の保有形態が変わりませんからその土地利用の制限がない。縄のれんがあってもキャバレーがあってもおかしくはない。(中略)それから宗教というのは日本の行政でアンタッチブルですから、教会を新住につくるわけにはいかない。

このような方針が取られた結果、鉄道会社は、ニュータウン内で開発利益から直接的には排除された。小田急が多摩線の沿線でやや小規模な区画整理を行ったのみである。従って鉄道の建設が住宅の建設に先行することは出来ず、当初は全て京王の聖蹟桜ヶ丘までバス連絡となった。
建設資金の新たな調達方法として、NT(ニュータウン)線方式が登場した。これは、新線を日本鉄道建設公団が建設し、開通後も公的資金で25年の長期の低利融資が行うもので、東京都と国が利子補給を行い、鉄道会社側の負担を軽減する方法である。また小田急の場合で額を挙げると、新百合ヶ丘―多摩センターの建設費420億のうち167億を、開発施工者として東京都、住宅公団、東京都土地開発公社が分担して負担した。京王は1972年に多摩センターまで、小田急は同年も同年に永山まで開通した。いずれも線形は東急田園都市線と異なり、130キロ運転も可能な良好な線形 (19)である。
しかし、既存路線の複々線化は費用負担の問題から遅々として進まなかった。京王に至っては1978年に新宿―笹塚を別線で地下複々線化した後は、線増をやめてしまった。小田急も構内線のような東北沢―代々木上原以外は進まなかった。要は割安な定期代の客のためにラッシュ時だけのための線路設備を整備するのは私企業として割に合わない (20)ということである。
このような社会的損失の問題を解消するために、1987年には特定都市鉄道整備促進特別措置法(いわゆる特特法)が施工され、輸送力増強のために割り増し運賃を適用できるものとなった。しかし、京王はピーク時の全列車の10両化(21)でお茶を濁し、逆に積み立て分を値下げに回した。小田急は登戸―東北沢の複々線化に本格的に着手したものの、既に市街地化した都内の用地取得は難航し、現在は和泉多摩川―喜多見が完成しただけである。何とか今年の12月に複々線区間が延長されるが、井の頭線との接続駅で乗降に時間がかかる下北沢がボトルネックとなり、スピードアップは出来ても増発はできない。全線の完成はまだ遠い上に、当初の計画の新百合ヶ丘までの複々線化は実質的に断念されたといってもいい。
結局、崇高な輸送計画に反して、1960年代後半から1970年代に多摩ニュータウンに入居した人は定年まで混雑する遅い列車で通い続けることとなった。しかも小田急は、昼間は多摩線内の折り返し運用のみであり、新百合ヶ丘からいつも混んだ本線急行に乗り換えねばならない。
これに対して京王は1992年から相模原特急の運行を開始した。これは停車駅を明大前・調布・多摩センターに絞った画期的な列車であり、20分サイクルの中では高尾行きの急行に続行(ノロノロ運転で)し、相模原線内で通過運転をして多摩センターで快速(相模原線内は各駅停車)に緩急接続するものだった。2001年3月改正で本線特急+橋本急行のパターンに変更された以降の方が、座りやすさは減少したものの、実質10分サイクルの利便性と2分の時間短縮で発展解消したとみるべきだろう。
だが2000年に多摩モノレールが多摩ニュータウン中央まで延伸されたことと相まって、多摩ニュータウンからのストロー現象が進展した。唯一の総合百貨店だった多摩そごうも赤字で閉店した(後継の三越は売り場を絞り込んでいる)。


(注1)東急の多くの路線網は、五島慶太が周囲の東京西南の私鉄群を統合していった結果、一つの鉄道となったものであり、玉川電気鉄道や池上電気鉄道(現 池上線)も独自の歴史を有している。玉川電気鉄道の歴史などは東急本体などよりは、ずっと古い歴史を持っている。しかし歴史意識の問題として、現在の東急が五島慶太と目蒲電鉄を自らの起源としており、且つ東急の総合グループとしての性格を考慮に入れれば、設立時に土地開発と鉄道運営が一体であったという点において、目蒲電鉄から話を始めるのは誤りないものと考える。
(2) 猪瀬直樹『土地の神話』小学館・1988は東急電鉄の批判的歴史として面白い。
(3)文京区などの高台の住宅地に比べると、東京の中での格は落ちるのだと、作家の田中康夫はつねづね主張しているが、「高級」の概念を作り出すのが今やマスコミである以上、田園調布は「日本最高」の高級住宅地であろう。
(4)本来のイギリスの田園都市は、公害と喧騒に満ちたロンドンの市街から離れた緑豊かな郊外に、職住近接の小都市を造ることを目的としており、出発時点から日本の田園都市概念の導入には限界があったことは、既に指摘されている。
(5)イギリスの田園都市構想には、自動車交通を主にするか、公共交通重視かという論争があった。
(6)昭和に入ると小林一三も慶応=三井系の人脈から大手電力会社の東京電燈の経営に関わると共に、東京宝塚劇場、第一劇場の建設で東京に本格的に進出する。
(7)目蒲電鉄=田園都市株式会社の経営に携わる以前から、五島慶太は武蔵電鉄の役員となっていた。
(8)現在の五島美術館に当たる。現在の観点では広大な日本庭園を持つ大邸宅だが、当時の財界人の邸宅としては平均的なものである。
(9)当初の計画には、田園都市線の沿線からやや離れて、現在の港北ニュータウンの一部も含まれていた。これは現在の第三京浜道路がもとは東急による私営高速道路「東京ターンパイク」として計画されており、ここを通るバスによって通勤輸送を「とりあえず」行う予定であったためである。
(10)本来は路面電車の玉川線の延長だったが、戦時中の工業生産のための輸送力増強のため鉄道線の大井町線が延長運転する形に変更された。
(11)1963年の長津田延長から1979年の新玉川線開通まで大井町―二子多摩川も田園都市線と呼称されていた。
(12)18m車の7000系か7200系の8連。
(13)4扉車として乗降をスムーズにする効果もある。
(14)三菱電機の商標であり、鉄道用語としては近年は「横流ファン」と呼ぶことが多いが、従来の呼称に従う。
(15)以下、北条晃敬「多摩ニュータウンの建設経過と課題」(「総合都市問題研究」10・東京都立大学都市研究センター・1980)を参考とした。これは計画の中心となった東京都の担当者自身による講演の記録であり、当事者ならではの生々しい声が記されている。
(16)西武多摩川線の延伸も検討されたが、起点が中央本線の武蔵境であり、都心に直結していないことから計画から除外された。戦後最大のラッシュ時輸送量を誇った中央線の混雑を激化させることは出来なかったためである。
(17)なお八十島義之助氏は東京大学工学部土木工学科の交通研究室(当時は一般交通工学講座)の主任を歴任し、戦後の交通計画の研究・策定に携わってきた人であり、東京大学鉄道研究会の初代顧問教員でもある。
(18)相模湖方面への延伸も計画されたが、用地買収の困難などから沙汰やみとなった。
(19)半ば感覚的なものではあるが、2001年まで存在した相模原特急が本線のノロノロ運転からうってかわって、相模原線に入ると一気に多摩センターに直行する様子は如何にもニュータウン新線を疾走する快感を味あわせてくれた。
(20) 国鉄は首都圏5方面作戦で線路別ながら複々線化を達成したが、外環状貨物線の建設費も含めて兆単位のコストとなり、幹線の貨物輸送、東北新幹線と並んで(ローカル線の赤字は大したことではなかった。)膨大な国鉄債務のうちの多くの部分を占めることになった。
(21)優等列車の混雑は殆ど変わらないが、名目上のことながら普通列車の輸送力増強で平均の混雑率を下げる効果がある。

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